泣く妹の口にタオルを 照屋礼子さん 米軍上陸(3)<読者と刻む沖縄戦>


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艦砲射撃が始まり、備瀬の住民は山中に避難した=本部町嘉津宇

 1945年2月、座間味島を離れた照屋礼子さん(82)=名護市=の家族は本部町備瀬の集落に戻りました。備瀬は父進さん、母松枝さんの生まれ故郷です。当時、松枝さんは四女の郁子さんを身ごもっていました。礼子さんは親類に預けられました。

 両親は備瀬で農業を営みます。進さんは当時30代半ば。「父は体が小さいため兵隊に取られなかったようだ」と礼子さんは話します。

 3月23日に米軍の空襲、25日に艦砲射撃が始まりました。米軍の上陸が迫り、家族は山中に避難します。礼子さんは黒砂糖やきな粉を詰めたリュックサックを背負っていました。進さんが残した資料には「嘉津宇の山にある自然壕に避難した」と記しています。嘉津宇や大堂の山地は米軍の進攻から逃れてきた住民で埋め尽くされたという記録もあります。

 壕の中では「空襲警報の歌」を歌いました。子どもたちが壕の外に出ないよう大人が言い付けたのです。戦争の恐ろしさを実感する出来事もありました。

 《本部の自然壕に隠れている時のこと、3歳の妹が「怖い、怖い」とよく泣いていた。他の親たちが「泣かすな、泣かすな」「みんなやられるぞ」「この子の口の中に何か詰めておけ」と怒鳴られ、母は妹の口の中にタオルを押し込んでいた。私はかわいそうでたまらなかった。》

 米軍に対する恐怖で住民の心も変わってしまいました。