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「偉大な存在だからこそ勝ちたかった」 元高校野球指導者の盛根一美さん 球史に残る名将 〈ゆくい語り 沖縄へのメッセージ〉28


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高校野球への思いを語る盛根一美さん=3月10日、浦添市のANA SPORTS PARK浦添

 県高校野球の指導者として全国で成績を残した一人に盛根一美さん(68)=浦添市=がいる。浦添商業の監督時代に3度甲子園の土を踏み、1997年夏にベスト4入り。定年まで、生涯監督を貫いた。現在は野球には直接関わらないが、高校、中学、学童野球界では多くの教え子が次世代を育成する。

 盛根さんが監督だった1970年代から2010年代にかけては、豊見城や沖縄水産などで監督を務めた栽弘義さんが第一人者。10歳年上で中京大の先輩に当たる栽さんの陰に隠れた部分もあるが、宮古、那覇商、浦添商、南部商、中部商と赴任全校を九州大会に導くなど強豪校に育て上げた。

 県大会の準優勝も多く、自身を「二番大将」と語るが、実績のないチームをゼロからつくり上げた手腕は県高校野球史に輝く。

 プロ野球で活躍する山川穂高選手(西武)も中部商時代に指導した。選手として、指導者として奮闘する教え子たちを「教育者としての財産」とし、それぞれの舞台での活躍とスポーツを通した人材育成を願う。

教え子たちの活躍は教育者の財産

 

野球場を背景に写真に納まる盛根一美さん=3月10日、浦添市のANA SPORTS PARK浦添(喜瀬守昭撮影)

 ―県内で数々の優勝を手にしながらも、「悲運の名将」の印象が強い。

 「大学卒業後に赴任した宮古で、夏の選手権沖縄大会で2年連続準優勝があったね。浦添商監督時代に甲子園に春夏合わせて3度出場したけど、その後に夏の県大会だけでも南部商で1度、中部商で2度準優勝した。何度もあと一歩で甲子園を逃した。監督としては『二番大将』だったかな」

 ―宮古時代は、高校野球の面白さを地域へ広めた。

 「赴任した1974年当時は、部員不足で直前の県春季大会は不出場。農家の家庭も多く、サトウキビの収穫期は選手は手伝いがあり、練習もままならない状況があった。夏の沖縄大会は宮古は未勝利だった。赴任した年の夏、県大会1回戦で久米島に勝ち、夏初めて勝った。2回戦は豊見城に逆転負けしたが、歴史的1勝だったと思うよ。76年秋に九州大会にも出場し、普段の練習の時からOBや地域の方々が見に来て応援するようになった」

 ―77、78年の夏の県大会連続決勝進出は宮古島を盛り上げた。

 「77年は相手の豊見城のエースが宮古島出身の下地勝治選手(後にプロ野球広島入団)で、運命的な対戦だった。平良中時代に県内で初優勝した選手のほとんどが地元の宮古に進学したけど、下地投手は豊見城に進んだ。こちらは元のチームメートに1安打に抑えられた。下地投手の一世一代の投球に負けた」

 ―翌78年夏の決勝も豊見城と大熱戦に。

 「0―0の投手戦で最終回にサヨナラ負けした。投手には『くさい所をつけ』と際どい制球を求めたけど、甘く入り最後に打たれた。敬遠のサインで良かったかな。振り返ると指示が失敗だった。大きな魚を逃した。曖昧な采配では勝てないという教訓となった」

冷静な采配で甲子園初切符

 

県秋季大会で浦添商が2年連続逆転V。選手に胴上げされる盛根一美監督(1996年10月20日)

 ―宮古、那覇商を経て、88年に浦添商に赴任する。6年間休部状態の野球部を再建した。

 「1年生20人ほどが入部した。その年の県秋季大会で準優勝し、センバツを懸けた九州大会に出場。『さわやか1年生軍団』としてブレークした。九州大会は初戦負けしたが、直後の県1年生大会は準決勝で沖水にコールド勝ちし、決勝は石川に勝ち初優勝した」

 ―コールドで下した沖水は、90年夏の甲子園で準優勝する主力が当時のメンバーだった。

 「沖水は神谷善治投手らがいて素晴らしいチームだったが、こちらも嘉手納町や東風平町、浦添市などから優秀な選手が集まった。さまざまな戦術を試しながら、伸び伸び野球で一気に強くなった」

 ―甲子園に「もう一歩」が続き、93年夏、初めて念願がかなう。

 「県大会の準々決勝で沖水を破った。夏の大会だけを見ると、宮古時代に連敗してから15年越しの栽(弘義)先生からの初勝利だった。中京大の10年先輩で、偉大な存在だからこそ勝ちたかった。決勝は那覇商に勝ち、監督20年の節目での甲子園出場だった」

 ―神山昂さん(現KBC未来監督)、比屋根吉信さん(元興南監督)とは同年齢で、「三羽がらす」として競い合った。

 「栽先生を目標にしながら、時には試合以外でも交流し、励まし合ったね」

 ―初の甲子園を決めた時は、それまでと何か違いはあったか。

 「意識しなかったが、私自身が試合中に選手を怒鳴ることが少なかったと。それまでは、練習も試合でも選手にげきを飛ばしていた。しかしこの年は試合に限っては笑顔があったみたい。選手に期待しすぎないようにした分、逆に試合は冷静に臨めたのかな」

 「栽先生も試合では選手を包み込む穏やかな表情をしていた。甲子園の名監督と呼ばれる人物は多くがそうだったと思う。中京大学時代に箕島高校(和歌山県)出身の後輩がいたが、『尾藤スマイル』で有名な尾藤公(ただし)監督も『練習では鬼のような顔だ』と試合と練習の違いを話していた。監督は冷静さが大事だね」

負けてこその熱意 定年まで監督貫く

 

 ―97年は春、夏連続で甲子園に出場する。特に夏の県大会準々決勝は那覇商と壮絶な戦いに。

 「監督人生の中でも最高にしびれた試合だった。八回を終わり5―7で負けていた。最終回にヤス(下地康之選手)の打席でチャンスが来た。最初から狙っていけ、と指示した。本当に初球のカーブを打ち、逆転の3ラン。鳥肌が立った。決勝は沖水に勝ち、甲子園を決めた」

 ―2度目の夏、甲子園で初めて校歌を聞く。

 「春に負けた悔しさを選手みんなが忘れてなかった。1回戦で岩倉(東東京)に大勝。2回戦以降もエースの豊(上間豊投手)の好投と打線の爆発で、序盤で勝利を決めた」

 ―驚く采配もあった。

 「準々決勝の三喜夫(根間三喜夫内野手)の先発起用でしょ。元々投手兼任だったけど、故障もあり、県大会でも投げなかった。豊や3回戦で好投した寛(渡久山寛投手)に疲労があり、三喜夫しかいなかった。1失点完投は素晴らしかった。全員野球が目標。準決勝まででき、甲子園では全選手がプレーした」

 ―中部商時代はプロ野球でも実績を残す山川穂高選手や多和田真三郎投手(共に西武)らを指導した。

 「2人とも努力の塊だったね。穂高(山川選手)の時は最後の夏、島袋洋奨投手がいる興南に決勝で敗れた。サブロー(多和田投手)の時も決勝で負けた。私も定年で最後の夏だったので、悔しかったな」

 ―負けから学んだ点は。

 「負け続けてきたからこそ、ずっと熱意を持ち、監督を続けられたと思う。苦労したから、定年を迎える最後まであきらめない気持ちでユニホームを着け続けることができたかな」

 ―県内の野球界で多くの教え子が監督を務める。人材育成の功績は大きい。

 「指導者になりたい、と言って大学に進学し、本当に監督になった教え子を見るとうれしい。厳しく指導したが、私の気持ちが分かってくれていたのかな。22歳からスタートし、定年まで監督でいられたことと、教え子たちが高校や中学、学童野球のさまざまな場所で指導者となっている姿は教育者としてかけがえのない財産だね。沖縄のスポーツ界に必要な人材として成長してほしいし、今後も活躍をずっと見ていく」

(聞き手 前写真映像部長・外間崇)

もりね・かずよし

 1952年2月11日生まれ。那覇市出身。城岳小4年生で野球を始める。上山中、那覇商業高校を経て、指導者への道を掲げ、中京大商学部に進む。大学3年から練習時はノッカーとして仲間たちを支える。74年大学卒業直後に商業科教諭として宮古高校へ赴任。宮古、那覇商、浦添商、南部商、中部商で監督をし、全校を九州大会に導く。浦添商時代の93年夏、97年春、夏の3度甲子園に出場。初勝利した97年夏にベスト4入り。2012年3月、定年退職後、誘いを受け福岡第一高校で監督に就任。その年の夏に福岡県大会決勝に進んだが敗退。3年半ほど務め、体調不良のために監督を退き沖縄に戻る。妻千賀子さんとの間に2男1女。浦添市在。68歳。

 取材を終えて  

(前写真映像部長 外間崇)

 「闘志なき者はグラウンドを去れ」と熱い思いで選手と向き合った盛根一美さん。各大会を思い返すと、練習時の厳しさの半面、試合後は勝っても負けても、選手一人一人の努力を丁寧に語ってくれた。その表情に教育者としての一面があった。

 教え子たちとの交流は今も続いている。高校球児OBが競う「マスターズ甲子園」に2017年と19年に県代表で浦添商が出場した際には、自身も実際に打席に立った。教え子たちとの固い絆を感じる。

 各試合でスコアブックが選手の名前であふれる点が取材陣泣かせだった。「一人でも多くの選手を出したかったから」とにこやかに振り返る表情に全員野球の神髄を見た。

 準優勝も多く、偉大だったという栽弘義さんの陰にやや隠れた印象は、プロ野球で活躍した野村克也さんが自身を例えた「月見草」とも重なる。次に続く多くの指導者を育成した点も似ている。盛根さんの指導はしっかりと沖縄野球界に根を張っていると感じる。

(琉球新報 2020年4月6日掲載)