不安の日々、父の健在に光明 照屋礼子さん 米軍上陸(5)<読者と刻む沖縄戦>


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備瀬の海岸から伊江島を望む。兵士の遺体が砂浜に流れ着くことがあった

 父進さんが米軍に捕らわれ、本部町備瀬に残された照屋礼子さん(82)=名護市=の家族は不安な日々を送ります。しばらくして羽地村(現名護市)の田井等収容地区で進さんが元気でいることを知り、家族は喜びます。

 武装した米兵が集落に入り、住民にかくまわれている日本兵がいないか、家を一軒一軒回ることもありました。米軍の掃討戦が続いていました。

《私はときどき、母の妹の叔母さんたちと家の近くの砂浜を歩いていると、空襲でやられた兵隊たちの死体や、靴を履いたままの片足だけの死体を見たことがある。びっくりしてその場から立ち去ったが、備瀬の砂浜であちらこちら無残な光景を目にしたのだった。

 戦争の恐ろしさは表現できないくらいだ。伊江島も激戦のあった島と聞いてきた。》

 喜びもありました。四女の郁子さんが生まれたのです。

 《母は昭和20年の7月15日、今帰仁村今泊の米軍野戦病院で四女を出産しました。長女と妹は母について、私はまた備瀬の親戚に預けられました。》

 その後、家族は田井等収容地区で父と合流し、戦後の暮らしが始まりました。礼子さんは体験談の最後にこう記しました。

 《二度と戦争をしてはいけない。また、起こしてはいけない。皆が平和であるために。》

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 照屋礼子さんの体験談は今回で終わります。次回から海勢頭孝一さんの体験を紹介します。