豆腐を作っていると爆撃機が 海勢頭孝一さん 米軍上陸(7)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の平安座集落。1944年の「10・10空襲」で損害を受けた

 平安座島で生まれ育った海勢頭孝一さん(81)=うるま市=は兵隊にあこがれる子どもの1人でした。「まきを鉄砲のように担いで進軍をしました」と当時を振り返ります。

 集落には日露戦争以降の平安座出身戦没者を顕彰する「忠魂碑」が建てられ、幼い頃に通った記憶があります。大人たちは竹やり訓練、子どもたちは防空演習に参加しました。

 1944年10月10日、米機動部隊が沖縄の島々を襲った「10・10空襲」は平安座島にも大きな被害をもたらします。海勢頭さんもこの日、米軍機を目撃し、家族で壕に避難しました。

 「朝、豆腐を作っていると爆撃機が平安座の上空を飛んで行きました。防空頭巾をかぶってガマに避難しました」

 ガマは現在の平安座自治会館の後方の山手にあり、「ハタムンガマ」と呼ばれていました。集落の女性がガマに集まり、パナマ帽作りに勤(いそ)しみました。

 空襲による犠牲者は出ませんでしたが集落の家が焼かれ、マーラン船も失われました。住民の生活も変わりました。「空襲の後、昼間はガマの中で過ごし、夜は集落に戻るという暮らしになりました」と海勢頭さんは語ります。

 年が明けて45年2月以降、「アメリカ軍は日本人を見たら皆殺しにする」といううわさが島内で流れます。米軍上陸を恐れ、住民の多くが本島北部への疎開を急ぐようになります。