進まなかったマーラン船 海勢頭孝一さん米軍上陸 (8)<読者と刻む沖縄戦>


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平安座住民の約半数が北部に疎開し、残った住民はガマで避難生活を送った

 1944年10月の「10・10空襲」以降、平安座島の住民の間に危機感が高まります。「沖縄県史」などによると、県の指示によって北部疎開が始まったのは旧正月後の45年2月中旬ごろです。マーラン船に乗って国頭村などに向かいました。

 海勢頭孝一さん(81)=うるま市=の妻で平安座生まれの美佐子さん(80)の家族もマーラン船で疎開しました。「当時のことは覚えていない」と言いますが、疎開先で食料不足に苦しんだようです。父は米軍に捕らわれ、ハワイの収容所に送られました。

 孝一さんの家族4人もマーラン船で北部を目指しました。「2月か3月の月夜の晩だった」と記憶しています。ところが、いざ港を出たものの風が吹かず、船は進みません。風を夜通し待った末、「これは、やんばるに行くなという神様のお告げではないか」という話が船内で持ち上がり、平安座に戻りました。

 「沖縄県史」に収められた証言によると、平安座住民の約半数は北部へ逃れました。島に残った孝一さんはガマと集落を行き来する生活が続きました。

 米軍が本島西海岸に上陸し、激しい地上戦が始まったことを孝一さんは島で知りました。

 「夜、照間や具志川、石川の反対側からサーチライトが上がっているのが見えました」

 平安座に残った住民の間に不安が広がっていきました。