津堅島への攻撃を目撃 奥村敏郎さん 米軍上陸(13)<読者と刻む沖縄戦>


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浜比嘉島から見る津堅島

 うるま市勝連の浜比嘉島で沖縄戦を体験した奥村敏郎さん(85)=沖縄市=は体験談の中で「基地も軍隊もなかった」ことから、島に上陸した米軍と日本軍による激しい戦闘がなかったと記しています。

 日本軍の要衝と位置づけられ、米軍との間で激しい地上戦となったのが同じうるま市勝連で、浜比嘉島から約5・5キロ南にある津堅島です。

 「沖縄県史」や防衛庁(現防衛省)防衛研修所がまとめた戦史「沖縄方面陸軍作戦」によると津堅島では1941年以降、住民を動員した陣地構築が進みます。要塞(ようさい)銃砲隊、歩兵部隊、野戦病院、兵舎、慰安所が置かれ、住民と軍が共存する状態となりました。

 44年の「10・10空襲」以降、津堅島の軍備が増強されます。防衛隊や補助看護婦として島の若い男女約70人も駆り出されました。米軍は45年4月に津堅島に上陸し、激しい戦闘の末、日本軍は壊滅状態となります。住民も犠牲になりました。

 奥村さんは津堅島が米軍に攻撃される様子を浜比嘉島から見ていました。「津堅島は平たい島でしょう。隠れる場所はなかったのではないか」と話します。

 津堅島を攻略した米軍の命令で、住民は現在のうるま市南風原に移動します。奥村さんによると浜比嘉島に渡ってきた津堅島住民もおり、一時的に人口が増えたと言います。