沖縄市胡屋の奥村敏郎さん(85)から米軍上陸時の体験談が届きました。奥村さんは、うるま市勝連の浜比嘉島で生まれ育ちました。体験談の冒頭に「基地、軍隊が存在しなければ戦いがなく、それほど苦労しなくても済んだ」と記しています。
敏郎さんは1934年11月、浜比嘉島の浜集落で生まれました。四つ上の兄に菊郎さんがいました。父の眞彦さん、母美智さんは島を離れ、ポナペ島で働いていました。菊郎さんは浜比嘉島にいる父方の親戚、敏郎さんは母方の親戚に預けられました。
敏郎さんが浜国民学校(後の浜中学校、2012年に彩橋小中学校に統合)に入学したのは太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)した翌年の42年です。軍国主義教育の中で育ちました。「僕らも竹やり訓練をやった」と語ります。
44年10月の「10・10空襲」で浜比嘉島の向かいにある平安座島が攻撃されました。敏郎さんはその様子を学校で目撃しました。
「朝礼で学校の運動場にいると東から西へ飛行機が飛んで行った。『遊軍の演習かな』と思い、海岸まで下りてバンザイをやった。すると平安座のマーラン船が攻撃されたので、児童はクモの子を散らすように逃げました」
島には米軍機から落下した薬きょうが散らばっていました。
この年、敏郎さんは3年生でした。兄の菊郎さんは島を出て、県立一中に入学しています。