皇民化教育で軍人に憧れ 島袋文雄さん 米軍上陸(16)<読者と刻む沖縄戦>


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島袋文雄さん

 那覇市前島の島袋文雄さん(90)から「若い皆さんに私の戦争体験をお伝えしたい」との連絡をいただきました。沖縄戦当時、県立第一中学校の生徒でした。米軍上陸後、家族と共に本島南部へ逃れます。

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 島袋さんは1930年4月、那覇市前島で生まれました。当時は塩田で知られる地域でした。現在の那覇小学校の向かいにある前島中公園には、往時の塩田の姿を今に伝える「泊塩田之跡碑」があります。

 父は早世し、パナマ帽作りをしていた母の静さんに育てられます。44年、県立一中に入学します。勉強ができたのは一学期だけで、その後は勤労奉仕や日本軍の陣地構築に追われます。

 「那覇港ふ頭での軍事物資の荷役作業や小禄飛行場の掩体(えんたい)壕造りなどをやっていました。既に制空権はアメリカに握られていました。わずかに日本軍の飛行機がありました」

 学校では軍国主義教育が徹底されました。

 「朝礼では一斉に軍人勅諭を朗読しました。国粋主義的な教師もおり、軍国主義、皇民化教育が徹底されました。疑問は感じませんでした。陸軍大将や航空兵に憧れていました」

 43年にガダルカナルで戦死し、「軍神」とあがめられた与那国島出身の大舛松市さんは県立一中の卒業生でした。「一中のスローガンは『われわれは軍神大舛に続かん』でした」と島袋さんは回想します。