カエルやバッタ食料に 島袋文雄さん 米軍上陸(23)<読者と刻む沖縄戦>


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豊原から辺野古に向かう県道13号。米軍の野戦病院があった

 1945年6月下旬、摩文仁村(現在の糸満市)南波平で米軍に捕われた島袋文雄さん(90)が連れて行かれたのは久志村(現在の名護市)豊原にあった米軍の野戦病院でした。

 当時、豊原は「ミヤランシン」と呼ばれていました。この地区に駐留していた米軍の部隊長の名前、または部隊長の出身地名という説があります。

 「名護市史」によると、野戦病院は現在の久辺小学校から辺野古集落に向かう県道13号の途中にありました。「ベッドで寝るのは生まれて初めてだった」と島袋さんは語ります。この病院で腕に残っていた砲弾の破片を摘出する手術を受けました。

 麻酔を施され、ベッドに寝かされていた島袋さんは夜中、顔をたたかれ起こされます。相手は遺体の埋葬係でした。手術後、麻酔がさめないので死んでしまったのか確認したのです。

 その後、島袋さんは野戦病院の向かいにある埋葬地を訪ねました。「溝の中に遺体が投げ込まれ、放置されていた。私も、もう少しで埋められるところだった」と振り返ります。

 野戦病院には9月の初め頃までいました。食料が不足しており、カエルやバッタを食べました。現在の宜野座村古知屋で食料増産の作業にも従事します。

 その後、那覇に戻り、高校に復学します。卒業後、教職の道に進みました。