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芸能、コロナ乗り越える力に 組踊立方・人間国宝の宮城能鳳さん〈ゆくい語り 沖縄へのメッセージ〉29


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宮城 能鳳さん

 組踊が初上演されて300年の節目だった2019年、組踊立方の人間国宝、宮城能鳳さん(81)は、日本芸術院賞を受け、国の文化功労者に選ばれた。いずれも県出身者初の快挙だった。

 「是(これ)より我を生かす通(みち)なし」を胸に刻み、技芸向上に生涯を懸けてきた宮城さんは「日本を代表する伝統芸能としての評価の証しを得た」と喜び、伝統を守った先達への感謝を忘れない。

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、幅広い分野の舞台公演の自粛が長引く中、「実演家は舞台で培った強靱(きょうじん)な精神力で苦境をはねのけ、人々の心を癒やし励ます芸能がコロナ禍を乗り越える力となり、県民を後押ししたい」と力を込めた。

 理想とする「自然体と無心」の境地は「まだ程遠い」と謙遜しつつ、「背伸びせず、生涯現役を目指したい」と意欲をにじませた。芸を究める探究心は変わらず熱い。

基本の習熟が組踊継承の土台に

 

組踊上演300周年を記念し、首里城復興を祈念した公演「琉球舞踊と組踊」で、早期再建への思いを込めて古典女踊「諸屯」を舞う宮城能鳳さん=2月15日、首里城公園首里杜館前広場

 ―人間国宝に加え、昨年は日本芸術院賞を受け、文化功労者に選出された。卓越した技芸への評価が一層高まった。あらためて、どう受け止めているか。

 「思いもよらぬ評価で、身に余る光栄だ。幾度の危機を乗り越えた組踊の継承に尽くした先師・先達(せんだつ)のご労苦のおかげだ。私個人と言うより、能、狂言、文楽や歌舞伎と同様に日本を代表する伝統芸能として評価された証しとしての喜びが大きい。先達への感謝の念でいっぱいだ」

 ―能鳳さんの舞台は、女形の優美さと高い品格を併せ持つと評される。初代の宮城能造師匠に師事して以来、どんな思いで芸に打ち込んできたか。

 「女踊で一世を風靡(ふうび)した能造先生に指導していただいたことは大変ありがたい。『是(これ)より我を生かす通(みち)なし』という言葉をずっと胸に抱き、技芸向上に頑張ってきた。能造先生は普段はとても優しい方だったが、けいこになると大変厳しかった。特に組踊のせりふの唱(とな)えには厳しく、『最後の一字まではっきり唱えよ』と、何十回も『もう一度』と鍛えられた。先生は耳が遠くなられたのではないか―と思うことさえあったほどだ。所作と唱えの強さを演目の最後まで保って演技するという大きな財産を得た。組踊の所作の基本である古典舞踊も修練を積んで身に付けるよう、厳しく指導された。組踊の次代を担う後進を指導する際にも生かされている」

会心の舞台は一度だけ 自然体、無心で演じる

 

文化功労者の顕彰式で、歌舞伎俳優で人間国宝の坂東玉三郎さん(左)と談笑する宮城能鳳さん。2013年の新作組踊「聞得大君誕生」で、主演の坂東さんの振り付けを担い、親交がある=2019年11月5日、東京都内

 ―ご自身で「宮城能鳳の芸」を表現してほしい。

 「うーん、難しい。組踊や琉球舞踊の身体、心情表現は常に自然体かつ無心で演じたい。それに尽きる」

 ―そんな会心の舞台はあったか。

 「これまでの公演の中で一度だけあった。1985(昭和60)年、大阪の国立文楽劇場で初めて琉球芸能公演『御冠船踊』が開かれた。組踊音楽太鼓の人間国宝であった島袋光史先生と『執心鐘入』で共演した舞台だ。お互いに無心の境地で演じ、終演後にがっちり握手した島袋先生が『能鳳、君も無心で演じたか』と話された。会心の演技は後にも先にもこの一度だけだ。実はこの日、私はひどい風邪をひき、点滴を打って舞台を務めていた。体調が万全だからいい舞台が務められるとは一概に言えない。そこが舞台の恐ろしさでもある。大切なのは、集中力とどれだけ役になりきれるかだと思う」

 「その舞台の最中は咳(せき)一つ出なかったが、ホテルで寝入るとひどく咳き込んだ。沖縄に帰った後、胸の痛みで診察を受けた医師に『こんなになるまで無理したのか』と叱られた。肋骨(ろっこつ)にひびが入っていた」

 ―円熟の境地に達しておられる。組踊初上演から300年の節目を踏まえ、後進の指導を含め、継承に向けた抱負を聞きたい。

 「過分な評価で恐れ入る。私は、円熟の域にはまだ程遠い。ただ、年を重ね傘寿になっても技芸に対する気概は変わらない。体力は多少落ちてきたが、これからの舞台はあまり背伸び、無理をせず、生涯現役を目指して年相応の動きで演じ分けて、後進の指導にも励みたい。私の信条として、若い頃は男踊り、女踊りに偏らず勉強した。車の両輪のごとく、どちらも究めることが大事だ。組踊では、玉城朝薫の五番の全ての役柄を習熟し、所作の基本となる古典舞踊をしっかり究めることで、全ての役柄への順応力が身に付く」

 「将来の担い手が随分育ち、組踊300周年の公演でも活躍してくれた。これからはさらに資質を高めていく時代だ。原点に立ち返り、後進の皆さんが基本をしっかりマスターすることが未来永劫(えいごう)、組踊が沖縄文化、芸能の核として継承されていく土台になる。組踊は役ごとに違う抑揚が付く。唱えでも間違いなく、最後までしっかり発語できるように鍛錬を続けてほしい」

 ―背筋がピンと伸びた体形が変わらない。日々の健康管理、心身の息抜きはどうしているか。

 「『節制しているでしょう』とよく言われるが、実は違う。普段はずぼらで怠け者なのでゴロゴロしている。強いて言えば、愛犬との散歩を心掛け、けいこ場に据えた室内用運動器具でウオーキングするようにしている。体力は保てないが、気力だけは変わらない。能造先生の厳しいけいこが、少しでも芸を究めたいという今の私の気力の礎となって息づいている」

首里城で首脳もてなし 脳裏に焼き付く奥深さ

 

「宮城能鳳第1回独演会」を終え、あいさつする宮城能造師匠(右)と舞台に立つ宮城能鳳さん=1982年、那覇市泉崎の旧琉球新報ホール

 ―首里城が焼失して半年たった。首里城はどのような存在か。

 「伝統芸能の発祥の地であり、私たち実演家にとっての心のよりどころだけに焼失はショックが大きく、私は今も焼け跡を見ることができない。2000年の沖縄サミットで、各国首脳の晩餐(ばんさん)会が北殿であった。県立芸大教授として、学生と教職員に首脳たちに披露する四つ竹を指導した。晩餐会の予行演習にも間近で立ち会い、琉球王国の先人が芸の粋を集めて外国の要人をもてなした奥深さに思いをはせた。その光景が脳裏に焼き付いていて、焼けた首里城には足を運べない。幸い内外の支援の輪が広がり、2026年度には正殿が再建されることになり、この上ない喜びだ。再建祝賀公演に出演したいと強く願っている」

 ―新型コロナウイルス感染症が広がり、伝統芸能、音楽、お笑いなど幅広いジャンルの舞台が延期、中止され、多くの人が苦境に立っている。どう克服すればいいか。

 「全国民が活動自粛に取り組んでおり、終息は必ずやってくる。芸能に携わる方、特に実演家は舞台で培った強靱(きょうじん)な精神力をもって、コロナウイルスとの闘いに臨み、全県民と心を一つにして苦境をはねのけたい。沖縄の戦後史の中で、芸能は人々の心を癒やし励ましてきた。芸能がコロナ禍を乗り越える力を与え、県民を後押しする役割を果たしたい。沖縄芸能連盟や沖縄県芸能関連協議会など、幅広い団体が行政などへの支援を働き掛け、舞台芸術に携わる実演家支援の機運を高めたい」

(聞き手 編集局長・松元剛)

みやぎ・のうほう

 1938年7月30日、佐敷村(現南城市)生まれ、81歳。61年、宮城流の流祖・宮城能造氏に師事し、本格的に組踊、琉球舞踊を学ぶ。翌62年、琉球政府職員を辞職し、芸の道に専念した。女形の印象が強いが、72年に組踊が国の重要無形文化財に指定されるまでは男形も多く演じた。2006年に重要無形文化財「組踊立方」保持者(各個認定)=人間国宝=に認定。19年の日本芸術院賞、国の文化功労者選出は県出身者初。1990年県立芸術大学教授、2004年から客員教授を務め、多くの後進を育てている。宮城本流鳳乃会家元。

 取材を終えて  

芸究める情熱と誠実さ

(編集局長・松元剛)

 琉球芸能が誇る総合芸術とも言われる「組踊」は「聴くもの」とも評される。内に秘めた喜怒哀楽の情感を、唱えと目線や歩みなどの所作で表現する技芸には、自らを厳しく律する演者の全人格がにじみ出る。組踊立方の最高峰に立つ「能鳳先生」から、気の遠くなるような基本げいこの反復の大切さを聞き、そんな思いを強めた。

 芸を究めるあくなき情熱と、謙虚で誠実な人柄が研ぎ澄まされた言葉に重なる。伝統芸能界の内にも外にも「能鳳ファン」を増やしてきたゆえんだろう。後継者育成への意欲も強い。今後について、「背伸びせず、生涯現役を目指す」と目を輝かせた。愛着深い首里城の再建祝賀公演が実現すれば、「寸分のすきなく、まんべんなく美しい」(芥川賞作家の大城立裕氏)芸をぜひ見せてほしい。

(琉球新報 2020年5月4日掲載)