那覇市の大城武成さん(83)=から体験談が届きました。1945年4月1日の米軍上陸時、読谷村高志保から国頭村奥間へ避難します。米兵から逃れ、国頭の山中をさまよいます。
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大城さんは1936年6月、読谷村高志保で生まれました。父は14年生まれの武雄さん、母は13年生まれのカマドさん。武雄さんは召集され中国大陸の部隊に配属されましたが、病気となり読谷に戻りました。
武成さんには2歳上の兄・武徳さんと2人の妹がいました。44年には末妹の順子さんが生まれます。
《私たちが住んでいた場所からは、西海岸の海が広く見渡せました。晴れた日には慶良間の島々がはっきり見えました。家族8人、150坪ほどの土地の上に建つ、古い赤瓦の屋敷で暮らしました。
当時、一番下だった赤ん坊の妹、順子は成長していくにつれよく笑うようになり、とてもかわいらしい子でした。》
44年当時、渡慶次国民学校に通っていました。軍国主義教育が徹底されました。
《鬼畜米英と教えられ、米軍の捕虜となると、男子は犬のハンメー(餌)にされ、女子は辱めを受けると教えられました。敵の米兵は人間ではなく鬼だというふうに教えられ、それを信じていました。》
武成さんは「学校では奉安殿に最敬礼。竹やり訓練があり、『空襲警報の歌』も教わりました」と振り返ります。その空襲が現実のものとなります。