1945年4月1日、米軍が読谷の海岸に上陸しました。大城武成さん(83)=那覇市=は高志保から沖合に浮かぶ米艦船を見ていました。「海を見ると軍艦がびっしり並んでいました。軍艦の間を渡って歩けるかと思うくらいでした」
食料不足を心配していた父の武雄さんも疎開を決めます。1日夕、叔父、叔母らと共に国頭を目指して高志保を離れました。
《取る物も取りあえず、載せられるだけの荷物を馬車に積み、4月1日の夕方、夕飯を庭で食べて、食器を裏返しにして(ほったらかして)、海沿いの道を北上してやんばるを目指しました。叔母さんとその長男、私より七つ年上の叔父さんとその母親も一緒に、総勢12人で逃げました。
読谷村の長浜を過ぎ、恩納村の宇加地近辺に差し掛かったころ、米艦船の艦砲射撃のドカーン、ドカーンという音が後方から聞こえました。》
国頭へ向かう途中、日本軍のトラックとすれ違いました。
《荷台に乗っていた兵士が私たちに向かって「絶対勝つからね」と言って南へ向かって行きました。車のライトはつけず、エンジン音と兵隊の声だけ聞こえました。この時も、日本は絶対勝つと信じていました。》
国頭まで三日三晩歩き続け、眠気と疲労のあまり、途中に海に落ちて助けられることもありました。8歳の少年にとって過酷な逃避行でした。