1977年10月に結成された護憲反安保・平和とくらしを守る沖縄県民会議(護憲反安保県民会議)。初代事務局長だった玉城幸輝さん(82)=那覇市=は運動方針について頭をひねっていた。沖縄戦で亡くなった家族に思いをはせ、復帰運動に汗を流した人々の願いを引き継ぐ。原点に立ち返るべきとの思いに行き着いた。
父の幸助さん、長兄の幸雄さんを沖縄戦で失い、戦後は進学を断念した姉が軍作業員として働いた。その姿を見詰めてきた玉城さんは「頑張らないといけない」と懸命に勉強した末、郵便局への就職を決めた。
米軍による土地の接収に対する島ぐるみ闘争や米軍にあらがう瀬長亀次郎さんに影響を受け、玉城さんは全逓信労働組合の活動に尽力した。65年4月、県祖国復帰協議会(復帰協)が「祖国復帰要求大行進」を初開催した。本部郵便局勤務だった玉城さんは亀甲康吉全逓委員長から行進団受け入れを求められ、快諾した。
行進団は本部町渡久地で宿泊し、翌日名護まで歩いた。初めて行進に加わった玉城さんは心が躍った。「われらのものだ沖縄は 沖縄を返せ 沖縄を返せ」。歌声が響く。警戒する米軍が監視していた。行進団はもちろん、沿道で応援する人も米統治下から日本への復帰を願い心は一つだった。
72年5月15日、沖縄は日本に復帰した。それから5年後の5月15日、復帰協は解散した。この年10月、反戦平和など大衆運動を担う団体として護憲反安保県民会議が発足し、玉城さんは準備会から関わってきた。
当時、現在の金武町と恩納村をつなぐ県道104号越え実弾砲撃演習が暮らしを脅かす問題として浮上し、住民や多くの県民が体を張って止めようとした。「即時無条件全面返還」とはほど遠い現実は変わらなかった。
護憲反安保県民会議の幹事会メンバーだった渡久地政弘さん(81)=那覇市=は「大衆運動を盛り上げるため、沖縄闘争の再構築が必要だ。行進をしよう」と提起した。玉城さんの思いも同じだった。「復帰闘争の原点、平和運動を再構築しないといけない」。平和行進の開催が決まった。
78年5月13日、名護市を起点に平和行進がスタートした。東西2コースのうち、玉城さんは西の団長を担った。最初の一歩を踏み出したのは約150人。沿道の応援が復帰前のように後押しした。回数を重ね、参加者は増え、近年では県内外を含め約5000人規模の開催に成長した。名護市辺野古における新基地建設の強行など、沖縄に対する不条理を共有する場になった。
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、平和行進はことし初めて中止した。玉城さんは「今こそ、若い人たちの感覚で新しい運動方法をひらめく時だ」と強調した。渡久地さんも「平和行進をどうするか考える時間ができたと思えばいい。どんなに困難でも運動を続ければ展望が開ける」と見据える。立ち止まった歩み。けん引者たちは運動の在り方を見詰め直し、その再々構築に期待した。
(仲村良太)
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昨年、42回を数えた5・15平和行進。復帰とは何だったのか。立ち止まったことで見えてきた人々の思いを次の歩みへつなぐ。