家族・親族、飢えに苦しむ 那覇市の大城さん 米軍上陸(29)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
現在の東村高江。家族が栄養失調に陥った

 読谷村高志保から三日三晩歩き続け国頭村に着いた大城武成さん(83)=那覇市=の家族は馬車を引いていた馬を携え、比地川沿いの道を上っていきます。

 《それまでの3日間は、食料として持参していたイモを食べていました。昼間炊いて、米軍機の音が聞こえると火を消して、過ぎ去るとまた火をつけました。一日分のイモを炊いて、三度に分けて食べました。》

 イモが尽きると、父の武雄さんと叔父が馬をつぶして家族で食べました。高志保から一緒に逃げていた人々にも馬肉を分けました。その後も食料不足が続きます。

 《食べるものが何もなくなり、飢えに苦しみだすと、父が食べ物を探すために1人、夜の山を降りていきました。帰ってきた父は一斗缶を抱えていました。米軍から盗んできたもので、缶詰が入っていました。》

 武雄さんが米軍の陣地から食料を調達した時、「助きてぃくみそーり」という女性の声を聞きます。米軍に銃で撃たれて負傷しており、山の麓に運んだといいます。初めて食べた缶詰はおいしいとは思えませんでした。

 武成さんの家族らは山中を横断し、東海岸の東村高江にたどり着きます。地元住民が建てた避難小屋に隠れましたが、食べる物はありませんでした。

 《私たちの家族・親族はさらに悲惨な飢えに苦しみ、最終的には皆が栄養失調になります。》