家族連れや友人、同僚、見知らぬ人同士が手を握り合った。地形が険しく、人手が足りない箇所はタオルや横断幕でつなげた。「基地はいらない」。人間の鎖の参加者が声を上げ、空に手を掲げた。5・15の平和行進の42年の歩みの中で、たびたび実施された人間の鎖には、万単位の人が参加した。沖縄に居座り続ける米軍普天間飛行場や嘉手納基地を取り囲み、民意を示した。
1987年6月21日には復帰15年の節目に合わせ、初めて嘉手納基地包囲行動が実施された。米兵による少女乱暴事件で、県民の反基地感情が大きく膨らんだ95年や98年には「5・15」に合わせ、普天間飛行場を包囲した。
2000年7月21日、九州・沖縄サミットの首脳会合が沖縄で開催された。県民の反基地感情を和らげるための“政治判断”があったという声もある中、嘉手納包囲は首脳会合の前日に実施された。
提起した一人、沖縄平和運動センター現事務局長の岸本喬さん(58)は「大規模な行動で、重い基地負担を国際世論に訴えたかった」と振り返った。少女乱暴事件後、日米間では普天間飛行場の返還・移設問題が主要な議論となり、極東最大の空軍基地である嘉手納基地を「タブー視」させないために包囲することにこだわった。
当時、沖縄平和運動センター初代事務局長だった仲宗根義一さん(78)も準備に追われた。復帰前の68年1月に嘉手納基地で起きたB52戦略爆撃機墜落も目の当たりにした。B52撤去を強く求めてきたが、沖縄の空は危険なままだった。「復帰後も爆音問題や事故が続き、嘉手納への『運動』は手を緩めることができなかった」
2000年の人間の鎖では2万7千人が嘉手納基地周辺を取り囲んだ。07年の5・15平和行進でも1万人が嘉手納を包囲した。
沖縄の重い基地負担は今も変わらない。名護市辺野古では普天間返還の「条件」として新基地建設が進められている。
「復帰半世紀も目前だ。基地を減らさなければならないのに、新たに造られようとしている」。仲宗根さんは変わらぬ沖縄の現状を憂う一方、あらがい続ける。現在も平和行進に参加し、辺野古のゲート前でも座り込み抗議する。「那覇市の新都心などのように基地がなくなれば県民生活や経済活動の空間が生まれ、豊かになる。そのことをイメージしながら、多くの生活者が参加できるような平和運動が広がるといい」
(島袋良太)