戦闘収まるも食料不足 大城武成さん 米軍上陸(31)<読者と刻む沖縄戦>


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敗戦時、大城さん家族が過ごした国頭村奥間の集落

 乳飲み子の順子さんを栄養失調で失った大城武成さん(83)=那覇市=の家族はその後、国頭村奥間にある「前仲門」という屋号の家で暮らします。

 日米両軍の戦闘は収まっていましたが、食料不足は続いていました。

 《終戦直後で、栄養失調の状態でいつもおなかをすかせていた私は、奥間の砂浜で、米兵が捨てたであろう濡れたパンを拾って食べたことがあります。

 別の日、同じく栄養失調の兄と2人で、辺土名のごみ捨て場のような場所で、米兵の捨てた空き缶を拾ったことがあります。

 中身を食べようとしていると、それを見た米兵に捨てるよう促され、いったん捨てました。米兵の姿が見えなくなると再度拾って、缶の中に指を突っ込み、残っていたバターを食べました。とても美味しかったです。忘れられません。》

 家族はその後、金武町中川で暮らしました。母のカマドさんが海で採ってきたチーパッパ(ツワブキ)を食べ、飢えをしのぎました。「あく抜きしたソテツのかすも食べました」と語ります。

 1946年、家族は読谷村高志保に戻ります。家の3分の2は失われていました。武成さんは学校に戻り、1学年下の子と共に学びました。こうして、戦後の歩みが始まりました。