故郷の本部で祖母と生活 親川委代さん 壕の中で(1)<読者と刻む沖縄戦>


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親川委代さん

 那覇市の親川委代さん(85)から「本部町山川にガマがあることを知っていますか」という連絡がありました。海洋博記念公園の海岸沿いです。親川さんは半年以上、このガマに避難しました。親川さんがつづった体験記と合わせて紹介します。

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 親川さんは1934年7月、大阪市西成区で生まれました。父の清睦さんは軍需工場で働き、母ツルさんは雑貨商を営んでいました。2人とも山川の出身です。

 委代さんが3歳のころ、ツルさんと2歳下の弟と共に本部町に引き揚げます。山川にある父方の祖母の下で暮らしました。2年後、大阪に戻ることになりましたが、委代さんはごねたといいます。

 「母は厳しくて、食べ物の好き嫌いを許さない人でした。2年間、本部にいるうちに私はすっかりおばあさん子になっていました。大阪に戻る時、私はわがままを言って泣き叫んだそうです」

 船に乗って本部の渡久地港を出る時、那覇の宿にいる時も泣き通しでした。結局、たまたま那覇に来ていた山川の人に伴われ祖母の家に戻ることになりました。

 ツルさんと弟は大阪へ行き、敗戦後まで離れて暮らしました。「戦後になって、母からその時のことをよく言われました」と懐かしそうに振り返ります。