空襲警報、一目散に自宅壕へ 親川委代さん 壕の中で(2)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
謝花国民学校の跡地(現・町営住宅謝花団地)に残る奉安殿

 本部町山川で祖母と共に暮らしていた親川委代さん(85)=那覇市=は謝花国民学校に通います。児童数2千人余を数える大規模校でした。
 本部町にも戦争の影が漂います。日本軍の伊江島飛行場建設に住民が動員されました。陣地構築も進みます。
 町民を恐怖に陥れたのが1944年の10・10空襲でした。委代さんは4年生でした。

 《朝、登校しようと家から出てみると、大人たちが飛行機の音に異変を感じ、空を見上げて話し込んでいました。それが敵機来襲だと誰も知りませんでした。情報一つありませんので、恐ろしいことなど知らずに登校しました。
 しばらくすると空襲警報のサイレンが鳴り響いたのです。一目散に帰宅しました。当時は各家庭で防空壕を造ることが義務づけられていました。一晩、防空壕で過ごしました。》

 防空壕は家の庭に穴を掘り、入り口を木で覆って屋根にしたものです。10・10空襲では港がある渡久地や瀬底にあった艦船や輸送船、軍事施設、民家が攻撃されました。特に渡久地は集落の7、8割が焼失し、住民の避難生活が始まりました(「本部町史」)。

 委代さんは壕の中で爆発音を聞きました。壕で一晩を過ごし、翌日から山川集落の海岸沿いにある自然壕へ避難します。