空襲後にガマで避難生活 親川委代さん 壕の中で(3)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
山川集落の海沿いにある自然壕

 本部町山川で祖母と暮らしていた親川委代さん(85)=那覇市=は1944年の10・10空襲の後、集落から海岸に降りたところにある自然壕(ガマ)に避難します。場所は、現在の海洋博公園内にある「夕陽の広場」の東側の海岸です。

 山川集落の住民の多くは嘉津宇や大堂集落の周辺にある山に避難しましたが、一部住民は海岸沿いの壕に逃れました。

 「山川集落から海岸に降りるとガマがいっぱいあるんです。壕の中には人が手を加えた跡がありました。首里から下りてきた士族が暮らしていたと大人たちが話していました」

 夜、干潮に合わせて、壕から集落内の家に戻りました。

 「ガマには満潮の時には行けない。夜、干潮の時には家に戻り、食べ物や着替えを取りに行きました。懐中電灯はありません。木に火を付けて明かりにしました」

 食料は畑から取ってきたイモや野菜です。近くの壕に避難していた住民が分けてくれた魚も食べました。

 「山川は半農半漁の集落で、いじゃい(夜の漁)をして魚を捕っていました。私の祖母は、いじゃいをしませんでしたが、周囲のガマに住んでいる家族が魚を持ってきてくれました。それをあぶって食べたり、塩漬けにして保存したりしていました」

 このような生活が45年3月末まで続きます。