戦闘後、米が投降呼び掛け 親川委代さん 壕の中で(4)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
山川の海岸から見る伊江島。米軍の猛攻撃に遭った

 1945年3月末、空襲や艦砲射撃が本部町を襲います。4月1日、沖縄本島の中部西海岸に上陸した米軍は本部半島に進攻し、八重岳周辺で日本軍と米軍が激戦となります。

 祖母と共に山川集落の海沿いにある壕に避難していた親川委代さん(85)=那覇市=は米軍進攻に恐怖を感じていました。

 《米軍の船が艦砲で攻撃するのを壕の入り口から見ていました。上陸用舟艇が瀬底島の方から嘉津宇あたりに向かうのも見ました。米軍は伊江島を包囲し、空から海からと攻撃を繰り返していました。私たちが避難している洞窟の中まで割れんばかりの爆音が響きました。》

 戦闘が落ち着いた頃、沖縄の住民を伴った米兵が、親川さんのいるガマの周囲に姿を見せるようになります。米兵と行動を共にしていた住民は、壕に隠れている山川の人たちに「戦(いくさ)や終(う)わいびたんどー。家(やー)かい帰(けー)いみそーれ。戦や負きたぐとぅ、家かい上(あが)いみそーれ」と呼び掛けていました。

 《洞窟から出るようにと呼び掛けられ、大人たちは殺されるだろうと思いながらも、何日か時間をかけて自宅へ帰りました。海、空、地上、あの恐ろしい音がやみ、静かな日常に戻った気がしました。》

 「もう戦争が終わったようだ」と大人たちが判断し、親川さんらは壕を出ました。その後、久志村(現在の名護市)大浦崎の収容地区に移動します。