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タフな守備、チームの要 名門大で闘争心学ぶ 琉球ゴールデンキングス・田代直希(下)<ブレークスルー>


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2018―19シーズンCS準決勝 A東京の馬場雄大に激しい守備を仕掛ける田代直希(左)=2019年5月7日、沖縄市体育館

 大学バスケ界のトップ・関東1部リーグに20年以上籍を置き続ける名門・専修大。田代直希(26)は4年間で「大学ナンバー1フォワード」と称されるまでに成長し華麗な飛躍を遂げる。

 日本リーグ(のちのJBL)で主将としていすゞ自動車を4連覇に導いた中原雄ヘッドコーチ(HC)の下、当時の専修大は闘志を前面に出した激しいプレーが持ち味だった。「練習中からめっちゃ熱くて、殴り合い寸前までいくこともよくあった」という。どこか冷めていた田代も日に日に心に闘志の火を宿していく。

 それが「勝負強さ」として表れたのが、エースを張るようになった3年時。2部との入れ替え戦で大東文化大とぶつかったが、当時の専修大は下級生主体で劣勢という下馬評だった。しかし田代が第1~3ピリオドまで全てブザービーターを決め、追いすがる。試合時間残り9秒で逆転の3点弾も沈めて逆転勝利を収め、関東リーグで「(2部に)落ちない専修」と称される伝統を守った。今のタフなプレースタイルの素地をつくり「大学で『闘争心を出せ』と教えてもらった。中原さんに出会えて良かった」と感謝する。

■プロ3年目で自信

 4年時もエースとしてチームをけん引したが「バスケでは食っていけない」とプロ願望はなかった。そんな時、琉球ゴールデンキングスの木村達郎社長に「一緒にやらないか」と声を掛けられ、沖縄市体育館のホーム戦に招かれた。忘れもしない2015年11月8日。試合後にジェフ・ニュートンの永久欠番セレモニーがあった日だ。

 カラフルなネオンに照らされたコート、観客席を埋めるブースター、途絶えることのない大歓声。閑散とした会場しか見たことのなかった田代にとって、それは衝撃的な光景だった。「この空気ならやってみたい」。翌16年、黄金色のユニホームに袖を通した。

 デビュー後は順風満帆とはいかなかった。当時はアンソニー・マクヘンリーや岸本隆一、喜多川修平らが攻撃の主体。「点を取るのは自分の役割じゃない。スタイルを変えないといけず、何がいいのかずっと半信半疑でプレーしていた」と模索が続いた。

 転機は3年目の18―19シーズン。ボールへの強い執着心とタフな守備を求める佐々宜央前HCのバスケがなじみ、迎えたチャンピオンシップ準決勝のA東京戦で「リーグでトップ3に入る選手」と自ら実力を認める馬場雄大、田中大貴にマッチアップし、2戦目に両選手を一桁得点に抑えて逆転勝利を手繰り寄せた。今でも「あの2人に引けを取らなかったのは自信になっている」。

 華やかな点取り屋から、泥臭いプレーを率先して行う強心臓の仕事人へと変貌を遂げた。

■一社会人として

 19―20シーズンは15年間のバスケ人生で初めて主将を務めた。当初は「メンバーに意識が飛び過ぎてプレーに集中できず、空回りしていた」と苦悩したが、少しずつ精神面を整えられ、徐々になじんでいった。

 12月に左足首を痛め途中離脱となっても「選手の顔色を落ち着いて見たりして、『今うまくいってないのかな』とか気を配れるようになってきた」と逆境をプラスに変えた。4月中旬からはランニングができるまでに回復し、リハビリも順調だ。

 来季は東と西の2地区制となり、東に強豪が集中するが「西が弱いと言われることがすごい嫌。西でも優勝できることを表現したい」と頼もしい。

 プレーや主将としての役割以外にも、コロナ禍で、ある気持ちが芽生えている。「大変な状況の中、ただのスポーツ選手ではなく、より社会に貢献できる人間にならないといけない」。心身を磨き続けてきた田代の言葉に、プロ選手としての自覚と強い責任感がにじんだ。

(長嶺真輝)