被爆した母、闘病の末逝く 親川委代さん 壕の中で(7)<読者と刻む沖縄戦>


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2013年、母ツルさんの名が「平和の礎」に追加刻銘された

 親川委代さん(85)=那覇市=の母、ツルさんは大阪市大正区で暮らしていたころ、雑貨商を営んでいました。1945年8月6日、商品を仕入れるために訪れた広島市で被爆したのです。

 乗っていた電車がトンネルを通過した時、大きな爆発音と爆風を感じ、その後、地獄絵さながらの現場に入っていきました。娘の委代さんに「天と地をつないだ雲を見た。死体がごろごろしていた。私は地獄から帰ってきたんだよ」と語っていました。

 《戦後10年目に母は突然倒れました。地域には病院はなく、往診してもらうだけで、疲労が原因だと言われました。容体は日々悪化し、意識障害も起きました。ただれた足や腰からの出血が止まらず、輸血が必要でした。

 父は、母のために役場へ何度も足を運び、被爆者として申し出ましたが、当時の沖縄では調査機関もなく、医療の技術者もいませんでした。何十ドルもする高価な血液を米国から取り寄せ、一度だけ輸血しました。》

 那覇で働いていた委代さんも看病のため本部に戻りましたが、4年の闘病の末、ツルさんは51歳の若さで亡くなりました。

 他界から51年後の2010年、広島市への申請手続きを経てツルさんの名は原爆死没者名簿に載りました。13年には「平和の礎」に名が刻まれました。戦後68年の年のことです。