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1945年3月末、中城村(現在の北中城村)喜舎場が米軍の空襲や艦砲射撃にさらされます。米軍の上陸が迫っていました。安里一三さん(87)=北中城村=は養父母の2人と共に3月25日ごろ、家族の墓に避難します。
墓は、集落内の家から200メートルほど離れた場所にあり、現在の米軍キャンプ瑞慶覧内に位置します。「墓の中にあった骨壺を全部外に出して中に隠れました」と一三さんは語ります。
墓に隠れていたのは数日で、その後、集落外れの自然壕に移動します。避難場所を変えた理由は「お墓は表通りに近く、米軍にすぐ見つかってしまう恐れがあったからではないか」と推測します。
《その壕は私が住んでいた部落(喜舎場)の西の端っこにある山の中、岩と岩の間に壕はあった。入り口は傾斜になっているが、2メートルくらい進むと、やや平坦になった。幅は2メートルくらい、長さは10メートルくらいの大きさだった。
そこに3家族10人余が避難していた。昼はじっとして壕にこもり、夜になると食べ物を取りに家に行っていた。》
自然壕の場所は現在の「あやかりの杜」の付近です。一三さんは壕の中で艦砲弾が飛ぶ音を聞いていました。壕の入り口から北谷の沖合に浮かぶ米艦船を見ていました。4月1日、米軍が上陸し、その日のうちに米兵は喜舎場に姿を見せます。