戦争に備え、食糧増産 安里一三さん 壕の中で(9)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
安里一三さん

 北中城村の安里一三さん(87)から墓や自然壕での避難体験をつづったお便りが届きました。米軍上陸の翌日、北中城村に進攻した米兵に捕らわれ、収容地区に送られました。

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 安里さんは1932年7月、当時の中城村(現北中城村)喜舎場で生まれました。8人きょうだいの次男で、7歳の時に本家の養子となります。実父の永太郎さんはハワイでの出稼ぎを経て、郵便局長を務めていました。3歳上の兄、憲治さんは県立一中に進みます。

 通っていた喜舎場国民学校には奉安殿があり、前を通る時にはお辞儀をしました。上の学年の児童は軍事教練に励んでいました。

 44年8月、第62師団歩兵第64旅団が喜舎場国民学校に旅団本部を置きます。旅団の上官は喜舎場内の民家で暮らしました。

 一三さんは6年生でした。「校舎は全部、日本軍に取られ、われわれは学校に行けなくなった。その後は勉強はやらずに畑へ行った。食糧増産ですよ」と振り返ります。喜舎場は稲、イモ、野菜、大豆の産地でした。

 集落内の民家では防空壕造りが進みます。一三さんの家でも一畳程度の広さの防空壕を築きました。地面に穴を掘り、板でふたをして土をかぶせただけの簡単な造りでした。10月の10・10空襲では上空を米軍機が通過しましたが、被害はありませんでした。
 
喜舎場が米軍の猛攻にさらされるのは45年3月末のことです。一三さんは墓へ避難します。