各地を転々 喜舎場に戻る 安里一三さん 壕の中で(12)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
安里さんが収容されたテント小屋があった「新桃原」付近

 中城村(現在の北中城村)喜舎場の壕を出てトラックに乗せられた安里一三さん(87)=北中城村=らは越来村(現在の沖縄市)越来に運ばれ、瓦ぶき2階建ての家で一夜を過ごします。翌日、具志川(現うるま市)方面の民家に移動しました。

 「米兵につかまれば殺される」と思い込んでいた安里さんは越来に運ばれた後、殺されずに済むと感じました。「沖縄系のハワイ二世の米兵がいて、安心しました。もう大丈夫だなと思いました」と語ります。

 その後、美里村(現沖縄市)桃原の茅(かや)ぶき小屋で過ごしました。そのころ中城城跡で戦死者の遺体を埋葬したといいます。

 「農業用の大きなフォークで死体を担架にかき入れて4人で運ぶ。民間人らしき男女や日本兵のような死体が20体はあった」と安里さんは振り返ります。遺体は城跡の西側に掘った穴に埋められました。「穴を掘り返してなければ、人骨は今も残っているはずだ」

 桃原で1カ月ほど過ごし、さらに東側へ1キロほど離れた場所に移動し、林の中に建てられたテント小屋で過ごします。米軍の泡瀬飛行場建設による移動とされています。この地は「新桃原」と呼ばれていました。現在のうるま市前原のイオン具志川店付近です。

 さらに中城村安谷屋を経て安里さんは1946年夏、喜舎場に戻ります。家は焼けてなくなっていました。