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沖縄芝居、戦世超えて助け合い「我した文化 残ちいかな」 役者・瀬名波孝子さん〈ゆくい語り 沖縄へのメッセージ〉30


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
瀬名波 孝子さん

 9歳の初舞台から沖縄戦を挟み、80年近く舞台活動を続けてきた瀬名波孝子さん(87)。敗戦直後、沖縄民政府が設立した公営劇団をはじめ沖縄芸能史に名を残す劇団に所属し、さまざまな役を演じてきた。そして今も現役役者として舞台に立ち、後進の育成に力を注いでいる。

 「戦世(いくさゆ)ん終(う)わてぃ 弥勒世(みるくゆ)んなられ 互(たげ)にうじなてぃどぅ 年(とぅし)ん取(とぅ)ゆる」(戦争が終わり、平和な世の中となった。互いに補い合い、助け合いながら年を重ねていこう)

 瀬名波さんは、座右の銘とするこの言葉通りの人生を送ってきた。沖縄戦を体験し、戦後の荒廃の中で舞台に立ち、沖縄芝居の黄金時代を駆け抜けた。

 新型コロナウイルスの感染拡大による相次ぐ公演自粛で県内の芸能関係者は厳しい環境にある。そんな中でも瀬名波さんは「負きてぃならん」と自身に言い聞かせ、舞台に立つ日を見据えている。

「負きてぃないみ」文化守り舞台に立つ​

 

沖縄戦を挟んで芸歴85年余。沖縄芝居の黄金期を駆け抜け、今なお舞台に立ち続け瀬名波孝子さん=2018年6月13日、那覇市泉崎の琉球新報ホール

 ―芸歴は80年近くになる。感慨を聞かせてほしい。

 「よく、ここまで働いてきたなと思う。でも、立てる間は芝居をやるし、意欲もある。若者と一緒に出る芝居では年寄り役なんだけど『孝子姉さんがいるから芝居は上等になったよ』と言われたい。『負きてぃないみ』という気持ちがある」

 ―芸の道に進んだきっかけは。

 「3歳の頃に父が亡くなり、古着商をしていた母が私たちきょうだいを育ててくれた。4歳くらいの頃、神里カミーと呼んでいた叔父に預けられ、そこで筝と舞踊を学んだ。覚えたのは『四季口説』と『特牛節』。親戚のお祝いに呼ばれて踊った。波上祭にも2度出演した」

 「小学3年の時、久茂地から泊に移った。その頃、長兄の同級生だった役者の親泊元清さんに、真楽座が拠点としている大正劇場に連れて行かれた。座長は玉城盛義先生。親泊さんは子役を探していて、兄に相談したようだ。それからは芝居に打ち込んだ。9歳のころだ」

芝居も軍事ものに 劇場は兵舎に

 

 ―どのような戦争体験だったか。

 「大正劇場に通っていた頃は太平洋戦争のさなかで、芝居も軍事ものをやっていた。劇場は兵舎になり、日本兵が寝泊まりしていた。『10・10空襲』の日の朝、日本軍の慰問があり、朝から準備をしていたら空襲警報が鳴り、壕に逃げ込んだ。空襲で家が焼けてしまい、宜野湾の知人の家に避難した後、今帰仁の越地に移った」

 「今帰仁にいるころ、兄たちが米軍に捕まり、羽地のカンパン(収容所)に連れて行かれた。母が銃で撃たれて米軍の病院で治療している間、私と弟が孤児院に入ったことがある。戦後は具志川の金武湾というところで過ごした。那覇の人が大勢集まっていて、兄たちの『戦果あぎやー』で暮らしが落ち着いた」

 ―敗戦後、どのような経緯で芸を再開したのか。

 「金武湾にいるころ、民政府の劇団・松劇団の芝居がやってきた。親泊先生が松劇団にいて『生きていたんだ。あなたも劇団に入りなさい』と誘われた。その後、玉城先生がいる梅劇団に呼ばれた」

 「松劇団では歌劇の『奥山の牡丹』に出たことがある。もともと出演する人が出られなくなり、『だれか、歌を歌える人はいないか』と代役を探していたので、私が手を上げた。『くぬわらばー うーまくーやっさー』(この子は怖いもの知らずだね)ということで急きょ私が主役を務めた。とても人気があった」

 ―敗戦後、芝居はどう受け止められたか。

 「戦が終わり、皆が哀れな思いをしていた。その頃は芝居以外に娯楽はなく、お客がいっぱい入った。劇場といっても屋根はなく、舞台もドラム缶の上に床を敷いただけ。そんな場所に客は集まった。周囲の木の枝に人がぶら下がるくらい。雨が降って、濡れても動かない客がいた」

 ―梅劇団を経て、どのような活動をしたか。

 「梅劇団にいた玉城先生と平安山英太郎さんが作った『南月舞踊団』に入った。米軍の慰問に行くにはダンスが必要だということで学んだことがある。ここでは現代劇もやった。その後、真喜志康忠さんと玉城先生が相談して作った『ときわ座』に入った」

 「夫となる松茂良興栄とは『ときわ座』で出会った。戦前から活動している先生方とは異なり、松茂良の演技はリアルだった。そこに惚れて一緒になった。後に夫と一緒に『みつわ座』という劇団を作り、人気も出たが、テレビの影響でだんだん芝居ができなくなった。あのころは生活も大変だった。5年くらいで劇団を解散し、ラジオの郷土劇をやった」

 「誘われて『沖映演劇』に入ったのは1965年。それから13年間、ぶっ通しでさまざまな役をやった。印象に残っている演目は『奥山の牡丹』。やりがいがあったし、演技に力が入った。『真玉橋幽霊』や『十貫瀬の七つ墓』という幽霊ものもやった。他の人は怖がるんだけど、私は『芝居だ、仕事だ。幽霊に負きてぃないみ』と言って演じた。沖映にいる頃、とても勉強になったし、演技にも自信が出てきた」

 ―お母さんに励まされたと聞く。どういう女性だったか。

 「本当に強い人。こんな人もいたんだね。亡くなる間際まで『芯(しん)や天竺(てぃんじく)に 枝や国まるち ひじや地ぬ底(すく)ぬ 果(は)てむ見(み)らん』(木の芯は天竺に届き、枝は国を抱く。ひげは地の底に伸び果ても見えない)という琉歌を詠み、「孝子、こんな風になれよ」と私に言い聞かせていた。『芯や天竺』『ひじや地ぬ底』とスケールはあまりにも大きいが、私も頑張らなければならない」

文化功労者の顕彰式で、歌舞伎俳優で人間国宝の坂東玉三郎さん(左)と談笑する宮城能鳳さん。2013年の新作組踊「聞得大君誕生」で、主演の坂東さんの振り付けを担い、親交がある=2019年11月5日、東京都内

芝居に文化が残る もっと誇っていい

 

 ―芝居に沖縄の文化があると語ってきた。その思いとは。

 「沖縄芝居によって沖縄の文化が残る。沖縄芝居の中にうちなーぐちがあるんです。そのことをもっと誇っていい。組踊が大切にされているように沖縄の芝居を大切にしてほしい。芝居をする人は皆、貧乏を体験してきた。支えてほしいと思う」

 ―若い役者をどう見ているか。

 「若者たちの中には、私たちの跡継ぎとなるような人が育っている。一方では、ぎりぎりまでせりふを覚えることができない人もいる。私たちは芝居に命をかけていた。『芝居しないと物(むぬ)かまらんどー』と。今はアルバイト気分。時代が違うと言えばそれまでだが、歯がゆい感じもする」

 ―若い役者に言いたいことは。

 「芝居に出るときは、びくびくしていては何にもならないと教えている。芝居の中では『その他大勢』の役でも、自分のせりふが出るときは前に出なければならない。芝居は目立つようにやったほうがいい。そして、どうすればお客に喜んでもらえるかを考えなければいけない」

 ―「戦世(いくさゆ)ん終わてぃ 弥勒世(みるくゆ)んなられ 互(たげ)にうじなてぃどぅ 年(とぅし)ん取(とぅ)ゆる」を座右の銘としてきた。そこに込めた思いとは何か。

 「私の人生そのものだ。お祝いの席で自然に出てきた言葉で、『我(わ)した文化 残(ぬく)ちいかな』と言ったこともある。戦争が終わり、平和な世の中になった。互いに補い合いながら年を重ねたい。そして沖縄の文化を守っていきたい」

(聞き手 編集局次長兼編集委員、写真映像部長・小那覇安剛)

せなは・たかこ

 1933年1月16日生まれ。那覇市出身。9歳のころに玉城盛義が率いる真楽座で初舞台。戦後は沖縄民政府が創設した松劇団、梅劇団を経て沖縄座、ときわ座に所属。夫の松茂良興栄さんらと旗揚げしたみつわ座で活動した後、1965年に沖映演劇に参加。13年間、専属俳優として活躍し、人気を博した。その後はフリーの俳優として活動するとともに後進の育成にも力を注ぐ。99年に県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者に認定。2012年に県文化功労者表彰、15年に沖縄芸能連盟功労賞。17年に琉球新報賞を受賞。同年、国立劇場おきなわで「85歳祝賀記念公演」を開催。

 取材を終えて  

芝居のともしび守る

小那覇 安剛

 新型コロナウイルスの影響で舞台活動はできず、文字通り「やーぐまぃ」の日が続いた。さぞ、しんどいだろうなと思いつつ、那覇市内の自宅を訪ねたら、にこやかな笑顔で迎えてくれた。聞けばマスクを作って周囲に贈っているという。

 「互(たげ)にうじなてぃどぅ 年(とぅし)ん取(とぅ)ゆる」ですよ、と張りのある声で話す。苦境の中でも支え合い、助け合いのちむぐくるで前を見据える。この強さは、きっと母譲りに違いない。

 瀬名波さんの母オトさんも那覇生まれ。夫を亡くし、古着商を営みながら4人の子を育てた。10・10空襲で家を焼かれ、茫然とする子どもたちを力強い「りっか」(さあ)の一言で鼓舞し、宜野湾の避難先へ向かったという。

 「強い那覇女でした」と瀬名波さんは母を語る。多くの苦労を重ね、沖縄芝居のともしびを守ってきた瀬名波さんの歩みは、どこかオトさんと重なる。

 「りっか」と立ち上がり、瀬名波さんが舞台に帰ってくる日をうちなーんちゅは待っている。

(琉球新報 2020年6月1日掲載)