米軍の空襲始まり避難生活 津波高徳さん 壕の中で(14)<読者と刻む沖縄戦>


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津波高徳さん

 那覇市の津波高徳さん(86)から南城市内の2カ所の壕での体験をつづったお便りが届きました。津波さんは南城市知念の海沿いで米軍に捕らわれ、名護市の収容地区に送られます。

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 津波さんは1934年3月、佐敷村(現南城市)津波古で生まれ、父高吉さんや母カマさん、兄たちと暮らしていました。高吉さんは足が悪かったといいます。長兄の武夫さんは後に少年兵として戦場に動員されました。

 佐敷国民学校に通っていましたが、44年10月の10・10空襲以降、登校することはありませんでした。「学校どころではなくなりました」といいます。

 壕での避難生活が始まったのは45年3月末、米軍の空襲と艦砲射撃が始まった頃からです。

 「艦砲が来て、避難しなければならなくなりました。偵察機も飛んできて、ビラをまいたこともありました。内容は覚えていませんが、読んだ記憶があります」

 壕は津波古集落の西側を流れていたチブガーラという小川の上流にありました。現在の馬天小学校の右手を小川に沿って坂道を上ったところに津波古住民は壕を掘っていました。

 一家の壕はチブガーラの源流にあった小さな滝の近くに掘ったものです。「そんなに深い壕ではありませんでしたが、そこに叔父の家族らと入っていました。港川辺りから艦砲が飛んでくるのが分かりました」と高徳さんは語ります。