米軍、運玉森まで攻め込む 津波高徳さん 壕の中で(15)<読者と刻む沖縄戦>


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チブガーラ上流部。壕はこの森の50メートル奥にあった

 1945年3月末、空襲や艦砲射撃が始まって以降、津波高徳さん(86)=那覇市=は佐敷村(現南城市佐敷)津波古の集落からチブガーラ上流部にあった壕に移動し、避難生活を続けていました。

 《艦砲の音を耳にしながら、湿度の高い壕で衣ジラミ取りに夢中でした。》

 川が近くにある壕の中は湿度が高く、シラミが大量に発生しました。「衣ジラミがいっぱいいてね。ひなたぼっこをしながらシラミをつぶすのが壕での唯一の楽しみでした」と津波さんは語ります。

 壕ではウムクジ(芋くず)に黒砂糖を混ぜて食べました。どこの家庭にもあった食材でした。

 5月末、戦火が迫ってきます。

 《親戚の防衛隊員が腕に大けがを負い、壕の中に飛び込んできた。彼によると、敵は運玉森(うんたまむい)まで攻め込んできたとのこと。それを聞いた一同は大騒ぎになった。》

 西原町桃原と与那原町与那原にまたがる運玉森は激戦地として知られています。米軍は「コニカルヒル」と呼びました。5月13日以降、日本軍と米軍の接近戦が続きました。

 「運玉森で米兵がヤギみたいな声で叫んでいたと叔父は話していました」

 津波さんが叔父から聞いた話です。米軍の記録によると、戦闘中、多くの米兵が心を病んだといいます。運玉森の惨状を物語るようです。