叔父の判断で知念半島へ 津波高徳さん 壕の中で(16)<読者と刻む沖縄戦>


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避難していた壕の近くから見る津波古の集落

 津波高徳さん(86)=那覇市=の家族らが避難していた佐敷村(現南城市佐敷)津波古の壕に戦火が迫っていました。どこへ避難すべきか、壕の中で家族や親戚が話し合います。1945年5月末から6月にかけてのことです。

 《日本軍がいる南部の摩文仁方面か、やや無風状態だった知念半島に行くか迷っていると、軍隊経験があった叔父が知念半島に行くことを決め、叔父の友人がいる志喜屋を目指した。》

 日本軍が摩文仁に移動することを壕内にいた家族らは知っていたと津波さんは話します。日本軍が行く所は安全だと考える人もいましたが、叔父は日本軍が手薄な知念半島が良いと考えました。津波さんは「戦争を知っている叔父の本能が、そうさせたのかもしれません」と話します。

 津波古住民の中には摩文仁に避難した人もいましたが、その多くが亡くなったといいます。叔父の判断が家族の運命の分かれ目となりました。

 家族は現在の南城市知念の志喜屋に向かいます。しかし、父の高吉さんは足が悪かったため母のカマさんと津波古の壕に残りました。「父は遠くまで歩ける状態ではなかったです。私たちも避難するので精いっぱい。仕方なく母が残りました」と高徳さんは語ります。

 志喜屋に着いた高徳さんらは叔父の知人の案内で自然壕に避難します。