米軍に捕らわれ名護へ 津波高徳さん 壕の中で(18)<読者と刻む沖縄戦>


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タタンシチーの周辺から見る志喜屋の集落

 米軍から逃れ、知念村(現南城市知念)志喜屋の壕「タタンシチー」に隠れていた津波高徳さん(86)=那覇市=の家族らは新たな避難先を求め、壕を出ます。

 《壕から出た後は4、5人ずつ集団になって、行く先もなく逃避していった。叔父と私たち兄弟は志喜屋の海側に転々とある大岩の陰に身を潜めていた。周囲を見ていると、一人の日本兵がサトウキビ畑を掃討中の米軍に見つかり、銃で撃たれるのを目撃した。》

 日本兵はバケツや荷物を持ち、津波さんらが隠れていた場所から約50メートル離れた場所にいて米兵に狙撃されたのです。この場所も危険でした。その後、掃討戦を続ける米兵に捕らわれます。

 《逃げ隠れするうちに「しまぐゎー」という部落に着き、捕虜となった。集められた者の中には顔見知りの人たちも多かった。》

 「しまぐゎー」とは現在の南城市知念の具志堅集落のことです。「あちこちに避難していた馬天(津波古)の人たちが集まっていました。自爆用の手榴弾を持っている人もいました」と津波さんは語ります。

 津波さんらはその後、具志堅から佐敷村(現南城市佐敷)の屋比久にあったテント小屋に移動します。そこでしばらく過ごした後、LST(戦車揚陸艦)で現在の名護市辺野古に向かいます。