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「超生意気だった」高校時代 恩師との出会いで変貌 背中追い、指導者の道へ 松島良豪(下)<ブレークスルー>


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琉球ゴールデンキングス戦の後、恩師の嘉陽宗紀監督(左)と記念撮影する松島良豪=2017年11月、宜野湾市立体育館(嘉陽氏提供)

 プロバスケットボール選手を引退した松島良豪(28)が、中学バスケの名将、父・良和さんの影を追うようにコーチの道へと足を踏み出している。初めて指導者を志したのは小禄高時代。「後輩に教えるなかでなりたい気持ちが芽生えた」という。ただ高校入学当初は鼻っ柱が強く、「先生の話も聞かないし、超生意気だった」。人間的な成長を後押ししたのは、妥協せずに松島と正面から向き合った嘉陽宗紀監督(現豊見城高監督)の実直な姿勢だった。

■衝突乗り越え

 父の厳しい指導の下、コザ中のポイントガードとして数十種類に及ぶフォーメーションを操っていた松島。高校入学前から既に戦術に対する知識が豊富で、当初は嘉陽監督の指導に対する不満を露骨に態度に表していた。教えに返事をしないことや、力を抜いたプレーをすることもしばしば。何度も衝突した。そんな教え子を前に「自分の言葉の伝え方や知識が足りない」と自身の力不足だと痛感したという嘉陽監督は、戦術論や言葉の伝え方の書籍を読みあさり、向き合い続けた。

 転機は高校2年の夏。190センチ台がいない低身長のチームは走り勝つバスケを掲げていたが、県総体決勝リーグの全勝対決でエース岸本隆一率いる北中城に14点差で敗北。続く九州総体では高身長の福岡大大濠に走り負けし、51点差の大敗を喫した。「自分たちより大きい選手に走り負けするなんて恥ずかしい」。苦い経験を通し「全国で戦いたい」という共通認識を強くした2人。

 嘉陽監督は「仲間への声掛けやプレーの良しあしを追究できる」と松島にエースガードの役割を与えるようになり、松島も練習中から常に仲間の先頭を走るようになった。

 その年の秋、ウインターカップの県予選決勝で再び北中城と相まみえた小禄は接戦を5点差で制し、同校初の全国出場を決めた。「先生は高校生の話もちゃんと聞き、言い合い、独断で指導しなかった。2年の冬には先生との信頼関係ができ、やりたい戦術もすぐに理解できた」。嘉陽監督とは今も月1回は連絡を取り、現状報告をしたり助言をもらったりしている。

 父・良和さんが中学時代によく口にしていた言葉も胸に残る。「選手を一人の人間として指導している。同じ目線に立って話さないといけない」。嘉陽監督と共通する選手と向き合う姿勢。「いい指導者に会ってきた」と指針を示してくれた2人に深く感謝する。

■県勢の受け皿に

オンラインで取材に応じる松島良豪=5月20日

 中高の体育の教員免許は持っているが、大学での指導を目標としている。今は「修士課程を修了していると大学教員になりやすい」と大学院に通う。期間は1年。この間に高校や大学のチームを巡り、多くの指導法を蓄積したい考えだ。

 指導者として目指すのは「日本で一番成長できる場所」をつくること。選手の中にはプロになる学生もいれば、一般企業に就職する学生もいる。自他との対話を通して成長を遂げてきた自身のバスケ人生を通じ「自ら考える力」を養うことを重要視する。「教育現場に携わる人間として、選手の人間性をしっかり育てたい」と奮い立つ。

 沖縄を離れて10年。「大学に進学してから、沖縄で習ったバスケが全国でも通用することを証明したいとずっと思っていた」と、自らのバスケ人生の素地をつくった故郷への思いが枯れたことはない。「自分が大学で沖縄出身選手の受け皿になり、トップで活躍する選手を育てることが沖縄への恩返しになる」。受け継がれた師弟の絆は、次代へと紡がれていく。

(長嶺真輝)