3家族15人で壕に隠れる 比嘉初枝さん 壕の中で(20)<読者と刻む沖縄戦>


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比嘉初枝さん

 昨年、10・10空襲の体験記を送ってくれた比嘉初枝さん(83)=豊見城市=が、玉城村(現南城市玉城)前川集落住民が避難した「前川民間防空壕」の体験記を送ってくれました。比嘉さんの証言を併せて紹介します。

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 前川集落の北西に、住民の生活用水として長年使われてきた「前川樋川(まえかわひーじゃー)」があります。その周囲に約40カ所の壕が今も残っており、「前川民間防空壕」と呼ばれています。1944年の10・10空襲の後、前川住民が2、3世帯が一組になって壕を築きました。「玉城村史 戦時記録編」(2004年刊)はこう記します。

 「多くの壕は入り口はしゃがんで通れるくらいの高さで、中はやや広く、隣り合う壕が内部で連結するという構造になっている。字前川区近くに米軍が進出してきた際には多くの住民が南部具志頭方面に避難した」

 比嘉さんらが避難生活を始めたのは45年3月23日のことです。最初は屋敷内に掘った壕に隠れましたが、空襲が激しくなり、前川樋川の上部に掘った壕に移動します。父母と3歳上の兄、弟、祖母、母の親戚ら3家族15人が3畳ほどの壕に隠れました。

 《毎日、空襲と艦砲射撃の音ばかり。子どもながらも戦争の怖さを思い知らされた。》

 壕は集落内の屋敷から直線距離で約400メートル離れています。「子どもの足で家から壕まで10分くらいかかりました」と話します。近くには日本軍の炊事場が置かれていました。この壕に約3カ月、避難します。