祖母と弟 砲撃の犠牲に 比嘉初枝さん 壕の中で(21)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
比嘉さんらが避難した前川民間防空壕群

 1945年3月末に始まった米軍の空襲と艦砲射撃から逃れ、玉城村(現南城市玉城)前川の前川樋川(まえかわひーじゃー)周辺に住民が掘った壕へ避難した比嘉初枝さん(83)=豊見城市=はイモを食べ、飢えをしのぎます。

 《日々戦争が激しくなり、弾丸飛び散るその中を、夜は食料探しに大人は時々出掛けた。》

 イモは壕の周囲にある畑から掘ったものです。他人の畑でもかまってはおれませんでした。壕の入り口に石積みのかまどを作り、シンメーナービでイモを炊きました。

 本島中部西海岸に上陸した米軍が南部に近づき、戦闘が激しくなったころ、同じ玉城村の船越集落から叔父がやってきて、壕を出て別の場所へ避難するよう勧めました。

 「叔父は『南へ下がるんだったら知念方面に行きなさい。糸満方面は危ない。死ぬしかないよ』と教えてくれましたが、両親は『どうせ死ぬのなら前川で死んだほうがいい』と言って、そのまま壕に残りました」と比嘉さんは話します。

 しかし、米軍の砲撃で祖母と弟の正行さんが犠牲になります。隣の壕にいた医師が正行さんを看病しましたが助かりませんでした。壕にいた父太郎さん、母キヨさん、キヨさんのいとこが負傷しました。初枝さんも首と指に傷を負いました。その痕が今も残っています。

 前川の壕に危機が迫っていました。