東京高検検事長と在京紙(元)記者の賭けマージャンは社会の耳目を集め、さらにメディアへの大きな批判を呼んだ。当該朝日・産経両新聞社が、すぐに当該社員を停職等の比較的重い処分にしたことからも、「一線を越えた」との判断があったと推測される。では、いったい何がいけなかったのか、主として法的観点から改めて整理しておきたい。なぜなら、もしこれが「不当な取材」であるとすると、今後の取材態様にも様々な影響を与えかねないからだ。それは当然、私たちの知る権利の問題でもある。
事件の概要は、ここでは繰り返さないが、ポイントとして、(1)報道関係者が公権力のトップ級と、(2)当該人物が焦点の国会審議中に、(3)しかも緊急事態下で、(4)違法な賭けマージャンを、(5)自宅にわざわざ集まって行った、ということにある。
取材先との距離
なぜ、情報を入手するために一緒にマージャンをしなくてはいけないのか――多くの読者の素朴な疑問だろう。しかし現実には、日本社会におけるお付き合い慣習と同様、少なくとも取材先と飲みに行くなど、密接密着な関係を築くことは日常的な風景であろう。
一方で日本社会の状況から考えると、こうした「取材先に食い込む」ことに、多大な労力を使わざるを得ない状況がある。その理由は情報公開の後進性、公権力の情報隠し体質にある。海外であれば法的に開示されるべき情報が、オープンにならない現実がある。さらに言えば、本来あるべき公文書が、こっそりと廃棄され改ざんされる事態が続いている。
それはいま現在のコロナ禍においても、平然と行われており、しかも誤った法解釈を閣議決定までして、押し通そうとする政府がある。そうなると、正面からの情報入手ではない「非公式」さらに言えば「非正規」の情報入手方法に頼らざるを得ないことになりがちだ。
しかもその時の切り札は、もっぱら「人情」の世界とされる。形のうえでは「信頼関係」と表現されるが、現実には取材先との人間的つながりのなかで、取材先が情に絆(ほだ)されて口を割る、という状態をいかに作れるかにかかっているとすらいわれている。あるいは、賭けマージャンがそういう状況かはさだかではないが、いわば一蓮托生(いちれんたくしょう)の共同体意識を持ちうるかということだともいわれることがある。
もちろん、双方の利害が一致してのビジネスライクでドライな関係もあろうし、ともに社会正義のために闘うという連帯感や共感が存在する場合もあるだろう。しかしこれらも含め、根底には決定的な開示情報の欠如という問題が付いて回っている。
これは極めて不幸だ。もちろん、記者にとってもだが、当然、社会全体にとっても、時間と労力の無駄が発生しているからだ。さらにいえば、取材源となる官僚や政治家にとっても、よけいな守秘義務違反の可能性を負うことになるわけで無駄である。こうした誰にとっても無駄で不幸な状況は、早く変えねばならない。それがこうした取材方法を大幅に軽減する、もっとも早道であることは言うまでもない。
その第一歩は、公文書管理法の誠実な履行を政府に実行させることだ。報道界が一致して、記者会見等でしつこく執拗(しつよう)に同じことを、どんなにめんどくさがられても何度でも、確認し続けることを実行するしかない。あるいは、専門家会議をはじめとして会議体構成者に、違法行為に加担していることを追及し続ける必要がある。
正当な取材行為
記者批判にはさらに、違法行為である賭けマージャンを行ったという点がある。記者の取材には形式的な違法行為を伴う可能性もある。政治家や警察から情報をとる行為自体、その多くは公務員の職務上知り得た秘密を「そそのかし」て聞き出す行為と捉えることが可能だからだ。しかしそれは通常、「正当な」取材行為として違法性が阻却されると理解され、裁判所も認めてきている。
一般には許されない、本人に知られないよう、こっそり当該個人情報を収集したり、追尾したりする行為も、記者の取材行為である場合は、法律の適用外として特別に許されている。また、裁判所で取材源が特定されるような証言を拒否することは、記者の最高倫理として事実上認められてきた。あるいは本人を許可なく撮影した映像や写真を報じることも、逮捕後であれば公共性があるとして容認されている。米軍や警察が(勝手に)引いた規制線を超えて事故現場を取材するのも、県民の知る権利に適(かな)うことであって支持されるであろう。
しかし一方で、目的が正しくても取材先から法的手段をとられた場合など、その違法性がゆえに逆に将来にわたって取材の枠が狭まることも起きてきた。たとえば談合事件でその証拠をつかむために会議室にレコーダーを仕掛けた行為や、証拠写真を撮るためにホテルの宴会場に名前を偽って侵入する行為は、許されないとされた。その結果、「無断録音はしてはいけない」という取材ルールができ、その後、政治家の問題発言があって、例えば非公式に録音データがあっても、証拠がないと正面突破される事態も生まれている。
さらには、この正当性をだれが判断するかも大きな問題だ。沖縄返還を巡る密約問題では、毎日新聞記者が男女関係を利用して情報を入手したのは「不当な取材行為」であるとして、刑事罰を課されている。そしてこの最高裁判例はその後40年を経て、特定秘密保護法のなかに条文として組み込まれてしまった。いわばいかなる取材行為も、政府の判断次第で「不当だから違法」と認定される可能性が高まっている。
もちろん、「ジャーナリズム倫理」としてやっていいことと悪いことがある。一昔前までは「殺し以外なら何やってもネタをとってこい」という言い方すらあったほどだが、時代の変遷のなかで、この許容範囲は極端に狭くなった。この点は十分に、報道機関側も認識をすべきだ。しかし、こうした取材の態様(方法)をもって、恣意的に情報へのアクセスを制限される危険性を、常に認識をしておく必要がある。しかもこうした公権力圧力は、社会のメディア批判の声にのって報道機関側が抗えない状況で押し寄せてくるところが厄介だ。
少しでも法に引っかかることはしてはいけないとなると、たとえば取材の一環で、記者が反社会勢力の集りに出ることもできなくなる。それは取材の可動域を狭め、真実追及の可能性を押し下げることになるだろう。こうした事態を招かないためには、私たち自身、社会全体の行き過ぎた潔癖性についての自戒が必要だ。
一方で、根底には圧倒的なジャーナリズム活動に対する信頼感の低下があることを、報道機関自身が強く自覚しなくてはなるまい。正当性を証明できるよう取材過程の透明性を高め、取材で得た内容をきちんと紙面化していくことが求められる。
(山田健太、専修大学教授・言論法)