嘉手納「2番地」再開発 基地に追われ住み着いた地 高齢の住民に転居の不安


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2番地地区の地図を広げ、整備計画について説明する真喜屋清さん(右)と博子さん

 【嘉手納】嘉手納町の「2番地地区」は戦後、居住地として最初に開放された場所で、米軍嘉手納基地に土地を奪われた住民が集まり、町を形成した。「これもまた、戦争被害の一つ。基地あるがゆえに起きた問題だ」。地権者の一人で、2番地地区まちづくり協議会会長の真喜屋清さん(81)と妻・博子さん(67)は、戦後75年が経過して動き出す再開発計画に期待を寄せる。

 清さんによると一帯は戦前、畑だった。1950年代初頭には「だいぶ町が出来上がっていた」。戦後、清さんが疎開先から戻ると一族の土地に知らない家族が住んでいた。「住民の多くが今も基地の中に古里がある。両親は『みんな生きるのに精いっぱいだから仕方がない』といって、黙認していた」。

 昨年1月に近隣の民家が全焼する火災があった。発見が遅れれば2番地地区に延焼する恐れがあったという。博子さんは「道は狭く、死角も多い。老朽化した民家で何かあったり、犯罪に巻き込まれたりしても救助が遅れてしまう危険性が高い」と指摘する。清さんも「防災や住環境の安全面から一日も早い改善が必要だ」と訴えた。

 一方、再開発に伴い転居を余儀なくされる住民の中には複雑な心境の人もいる。町が実施した聞き取り調査では、高齢のため生活環境を変えることへの不安を訴える声などがあった。同地区に長年、住み続ける人も多く、地区内は高齢化が進む。

 87歳の母親と共同住宅に引っ越すことを決めた新里幸太郎さん(66)は「防災上、危険なことは分かってはいるが、35年間もここで暮らす高齢の母にとっては相当な覚悟がいると思う」と話す。その上で「何十年も滞っていた問題がやっと一歩前に進む。命に代えられるものはない。やるからにはみんなが良かったと思える町づくりをしてほしい」と求めた。
 (当銘千絵)