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写真家・平敷兼七を発信 社会の影写した父に思い 美容師・平敷兼七ギャラリー代表・平敷七海さん 藤井誠二の沖縄ひと物語(15)


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写真家・平敷兼七さんの『山羊の肺』(2007年)という写真集が大好きで、とくに1960~70年代に撮られた当時の沖縄の「職業婦人」、つまり売買春で身を立てている、社会の辺縁に生きる女性たちや、彼女たちが暮らす街を切り取ったモノクロ作品の数々を食い入るように私は見ていた。静謐(せいひつ)だけど生々しい。完璧な構図。被写体と撮る側の関係性を考えさせる人々の眼差(まなざ)し。そこに写真家の葛藤があらわれていると思った。2009年、61歳の若さで写真家は肺炎で帰らぬ人となった。

父・平敷兼七さんの遺影や遺品の引き伸ばし機、ミシンなどと共にカメラに収まる平敷七海さん=6日、浦添市城間の平敷兼七ギャラリー(ジャン松元撮影)

ギャラリー開設

「父の死後、ずっと一階部分を賃貸で老人ホームとして使ってもらっていたんですが、たまたま空くことになったんです。でも、不動産屋も“新しい契約するならきれいにしないと”と言うほど建物が老朽化してた。でも、改修する予算もないし、もともと自分の美容室をやりたかったので、自分の年齢も若くないので自分で店を持ちたいなと思ったんです。自力で改装してオープンしたんです。私は他の美容室で働いてきたし、自分の部屋でも髪を切ってきたけれど、これを機会に自分の店をつくろうと思ったんです」

次女の平敷七海さんが、オープンした美容室「Anny」の隣―中でつながっている―で、父親の平敷兼七さんの作品や仕事を常設展示するギャラリーを開設したのは、同じ2015年のことである。美容室だけではスペースが広すぎ、スペースの半分を父のギャラリーにすることを思いついた。元老人ホームの名残も残したまま、手作りの平敷兼七ギャラリーはこうやって誕生することになる。美容室のスペースがもとは父親のスタジオだった。父が使っていた年代物の机や照明器具なども美容室で活用した。

「改装をする過程で、見たことがなかった父の作品がいろいろ出てきたんです。現像する作業などは見ていたけど、暗室は暗くて入れなかった。父が生きているうちはちゃんとスタジオの内部は見たことがなかったんです。母もあまり入れてくれなかったし、モノに触らないでといつも言っていました。父は有名じゃなかったし、何年か経(た)つうちに忘れられていって、時間の流れに埋もれていっちゃう。父の仕事がなかったかのようになるのが申し訳ないという思いでギャラリーを始めることにしたんです」

畏敬の思い

父親が愛用した机を仕事場の美容室で大事に使い続ける平敷七海さん=6日、浦添市城間の美容室Anny(ジャン松元撮影)

平敷兼七さんをリスペクトする県内の写真家たちが協力してくれて、県内外のアーティストとコラボレーション展を組み、画家の石垣克子さんや伊禮若奈さん、写真家の勇崎哲史さんや嘉納辰彦さん、小原佐和子さん、石川竜一さん、中川大祐さん、オサム・ジェームス・中川さんなど錚々(そうそう)たる面々が参加してくれた。トークライブも合わせて開催、私は映像批評家の仲里効さん、写真家の中川大祐さんとタイラジュンさん(司会役)と一緒に話者のひとりとして招いてもらった。話題は沖縄の「特飲街」(特殊飲食店街)をめぐる歴史や在りようについてで、ギャラリー内は若者らで埋まった。七海さんは、「キュレーターみたいなお手伝い」として活発に動いてきた。写真家であり、父親である平敷兼七という存在をいつも身近に感じていたい。そして未知の人に伝えたい。それが七海さんのよろこびになる。

「父は社会の大勢のみんなが目をそむけたがるところとか、決して豊かではない暮らしをしている子どもや老人を撮ってきた。カメラを持たずに通い続けて、人の気持ちにスっと入って、笑顔を撮る。それってなかなかできないじゃないですか。相手と打ち解けて、撮っていいよと言われるまでシャッターを押さない人だった」

父が好んで撮った辺野古の社交街を、七海さんは何度か見に行ったことがある。父が撮影した建物や場所を探した。廃虚化した建物もあった。七海さんが父と同じアングルでスマホで撮って、父の作品のネガをスキャンしてプリントしたものと並べて展示したこともある。七海さんは自分で撮った写真は、わざとコピー機で普通紙に転写したものを貼った。自分はあくまでも「写真家」ではないという、娘の父に対する畏敬の思いだろう。

カッコよさ継ぐ

兼七さんがいまも生きていたら何を撮っているのかなと、私が呟(つぶや)くように七海さんに聞くと「いまなら沖縄の自然を撮っていると思う」と彼女は壁に飾られた父親の肖像を見やった。ギャラリーには日に何人も老若男女が見学に訪れ、半分は県外から足を運ぶそうだ。

「死んでから父のことを知るようになったんです。存命のころは、こわいねーというイメージしかなかったけど、ギャラリーを開いていると、私が知らない父をお客さんが教えてくれる。好きな写真ですか? 昔の辺野古社交街や、古い時代の安里三叉路とか、今ではみれない街の景色を撮影したものですかね」

私もギャラリーに行くようになって、平敷兼七さんの初期の作品も探すようになった。「ドキュメント『沖縄列島』“本土復帰”を拒絶する娼婦たちの現実」(「週刊ポスト」1971年7月30日号のグラビア)を奇跡的に古書店で買い求めることができたときは小躍りした。

『父ちゃんは写真家 平敷兼七遺作集』(未來社)が出版されたのは2016年のことである。写真家の石川真生さんや、映像批評家の仲里効さんが写真選びなどに尽力した。本のあとがきに七海さんは、[父が生きているときに無関心だったのに、亡くなって初めて気がつく父の生き方、貧乏だったため、給食費が払えなかったり、電気、ガス、水道も止まったりして大変だったけど、そういう全部ひっくるめて、なんかカッコいいじゃないか!]と書いた。カッコよさは受け継がれた。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

へしき・なみ

1974年浦添市生まれ。1993年琉球美容専修学校卒業後、美容室に勤務。2015年2月、浦添市の実家が空き、そこに美容室「Anny」を開店。同年8月に美容室の隣に平敷兼七ギャラリーをオープンした。16年から、父の友人たちと共に3年間にわたり「2人展シリーズ」を開催した。その後は家族と周りの人たちに支えられ3カ月おきに展示会を開催している。

 

ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。