「首里城がない」知らなかった 裏の壕で「戦果」伝えていたのに 沖縄新報・許田さん<戦火の首里城 地下に眠る32軍壕>①


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首里城の城壁下に掘られた留魂壕での生活を語る許田肇さん=6月11日、那覇市(又吉康秀撮影)

 昨年10月末の首里城焼失は県民に大きな衝撃を与えた。75年前の沖縄戦でもがれきと化した首里城は戦の苛烈さ、悲しみも体現した。新たに再建が進む中で、地下に眠る沖縄戦を指揮した第32軍司令部壕や留魂壕の保存、公開を求める声も上がる。首里城が刻んだ戦禍の記憶を体験者の証言などから今に伝える。(沖縄戦75年取材班)

 沖縄戦に突入した1945年4月。首里城正殿裏手にある留魂壕内で発行された新聞「沖縄新報」は米軍上陸後も連日、日本軍の「戦果」を紙面で伝えていた。壕内にこもっていた同紙の新米職員、許田肇さん(96)=那覇市=が久しぶりに外に出ると、目を疑った。「首里城がない」。戦果とは異なる世界が広がっていた。

 許田さんは41年に那覇市立商業学校(現那覇商業高)を卒業、43年に徴兵検査を受けたが、体重が軽く入隊できなかった。当時、兵隊にならないのは「非国民」とみなされ、肩身の狭い思いをしたという。

 沖縄新報は米軍上陸直前の45年3月、首里城地下の第32軍司令部壕に近い留魂壕に移った。留魂壕は沖縄師範学校男子部でつくる鉄血勤皇師範隊が勤労作業をしながら掘った壕だったが、沖縄新報が半分ほどの敷地を使用した。

 許田さんが沖縄新報に入ったのは45年。父の紹介だった。業務局で経理を担当し、戦況を取材する同僚記者と共に壕内で働き、寝起きした。「壕からは水くみに出るくらい。うっかりしたら浦添方面から弾が飛んできた」と振り返る。戦況を知るよしもなく、事実よりも戦意高揚を重視していた新聞を疑わなかった。

 戦争の実態を知るのは壕を出た後だ。司令部の首里撤退を目前に、沖縄新報は5月25日に新聞発行を終えた。壕の外に出た許田さんの目の前に広がる光景は跡形もない首里城と転がる遺体だった。「それを踏んで出た」。戦火が迫る前、遊び場所だった首里城は見る影も無くなっていた。

■「なぜ戦場になったのか」

 1945年5月下旬、同僚記者らと共に米軍が迫った首里を後にして南部に避難した。だが、道すがら許田さんは爆弾でけがを負った。第32軍司令部が首里から南部に撤退したことによる巻き添えを食らった格好だ。

 留魂壕にいた頃、沖縄新報の記者たちは軍の発表を取材するため、首里城地下に張り巡らされた第32軍司令部壕を往来した。その間は200~300メートルとされ、記者は砲撃の合間を縫って留魂壕を朝出て、夕方戻ってくることを繰り返した。砲撃が激しく、紙面制作で組み並べて印刷に使う金属製の字型「活字」が壕内に散らばることも多かった。許田さんは経理担当だったが、新米職員だったため活字拾いも手伝った。

 決死の覚悟で刷られた「沖縄新報」だったが、45年4月29日付の紙面は「1万8千余を殺傷」との見出しで、日本軍の4月以降の「戦果」を伝え、「壕生活の組織化」と題した社説を掲載していた。記事は戦意高揚に終始していた。

 「交差点は注意しなければいけなかったのに」。米軍の攻撃から逃れようと、首里を離れ南に向かっていた6月ごろ、糸満町(当時)内のある交差点で上空に小型偵察機を見つけた。次の瞬間、艦砲射撃が許田さんらを襲った。着弾した爆弾の破片が持っていたスコップを貫通し、右太ももに突き刺さった。許田さんは一命を取り留めたが、前を歩いていた日本兵は顎の下が吹き飛ばされていた。

 同僚らと歩き続けた許田さんは6月中旬には真壁村(当時)にたどり着き、生き抜いた。だが、多くの同級生や同僚は戦争の犠牲となった。「なぜ沖縄が戦場になったのか」。友たちの姿を今も思い出す。