[日曜の風・浜矩子氏]愚かな政治も止めよう 「収束」か「終息」か


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 新型コロナウイルスによるパンデミック(世界的大流行)は収束するのか。終息するのか。二つの「しゅうそく」が使われている。どちらを使うかは、人によって違う。メディアも、それぞれの使い方をしている。一定の考え方に従ってルール化しているのだろう。筆者は、ずっとどちらを使うべきか、迷い続けている。

 辞書を引けば、「収束」については「おさまりがつくこと。収拾」とある。数学用語的には「ある変数が一つの有限確定の値にいくらでも近づくこと」などというのもある。「終息」については「やむこと。終結すること」となっている。

 さて、どうするか。「終息」には、どうも、何もせずに座して「やむこと」を待っているような語感がある。受け身の雰囲気だ。これに対して、「収束」にはそれこそ「収拾をつける」というニュアンスがある。「終息」よりは能動性を感じる。だが、パンデミックに関して使うには、やや軽々しいようにも思う。完全に終焉(しゅうえん)させたい。息の根を止めたい。その観点からは「終息」の二文字が適しているとも感じる。パンデミックという恐ろしい変数を「終息」という有限固定値に向かって完全「収束」させる。こんな使い方をしたくなって来た。

 今この時、全人類がこのパンデミックの終息を目指して収束努力を重ねていかなければいけない。そういうことなのだと思う。終息のための収束。そのためにすべきことは何だろう。できることを多くの心ある人々が既に懸命に実行している。そう言えると思う。グローバル市民たちの頑張りは大したものだ。

 それに対して、政策はどうだろう。賢い政治家たち、良心的政治家たちが対応している国々は幸せだ。愚かな政治家たち、良心なき独裁者たちが政権を掌握してしまっている国々は不幸だ。残念ながら、日本は後者に限りなく近い。それこそ、その状態に向かって収束中だ。独裁を許しているわけではない。だが、愚かな者たちが政策を私物化するという実態は現実化している。このような政治も、終息に向かって収束させて行く必要がある。

(浜矩子、同志社大大学院教授)