コージガマ(恩納村)住民の命を救った壕 見学者のために整備<記者が歩く戦場の爪痕>


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コージガマを案内する徳村博文さん(中央)、瀬戸隆博さん(左)と塚崎昇平記者=18日、恩納村真栄田(喜瀨守昭撮影)

 恩納村真栄田の宇加地は1945年4月1日に米軍が上陸した読谷村の海岸から北東に約3キロ離れた所にある。沖縄戦当時、住民の命を救った自然壕が「コージガマ」だった。岩山にあるガマに至る道は数年前、区民らが見学者のために枕木などを使って山道を整備した。「ふもとからガマに至るルートは当時と同じだ」と取材に同行してくれた徳村博文区長(64)が解説する。

 道は険しく、パイプ製の手すりを頼りに百数十メートルを登ると、岩肌にぽっかりと開いたガマの入り口が見える。幅約3メートルの入り口からは、琉球石灰岩のごつごつした岩肌に包まれた自然洞穴が姿を現す。取材した日の最高気温は31度。真夏日の太陽が照り付ける外と打って変わってガマの中はひんやりとした空気が流れていた。

 入り口付近は身長175センチの記者でもかがまずに立つことができた。しかし奥に進むにつれ土砂が堆積し、かがまないと進めなくなる。ガマの中は複数の空間に分かれているが、最も奥まったところでも奥行きは15メートルほど。幅も最大で5メートル程度だ。ここには最大で約100人が避難したという。すし詰め状態だったことがうかがえる。

 証言や「宇加地公民館記念誌」(2003年発行)などによると、コージガマは酒造りや保管場所として使われていたと伝えられる。1944年10月の「10・10空襲」に前後して、周辺住民らが避難場所として使い始めた。区民だけでなく中南部からの避難民も身を寄せたが、中心はお年寄りや女性、子どもだった。米軍の本島上陸地点からは目と鼻の先で米軍は上陸後1~2日で宇加地に到達したとみられる。村史編さん係の瀬戸隆博さん(52)は「恩納村のガマでも米軍に見つかったのは最も早い時期ではないか」と語る。

体験を語る友寄良善さん

 ガマの当時の様子を知る友寄良善さん(88)から話を聞くことができた。数年前まで友寄さんも平和学習などの際にはガマまで登り、当時の状況を説明していたという。友寄さんは鮮明な記憶を語った。

 米軍にガマが見つけられてしまったのは4月上旬。一組の親子が外に出たのをきっかけに、ガマに避難していた約80人が米軍に保護された。友寄さんは「(米兵に)殺される」と思いながらガマを出たが、「米兵が住民を(ガマから)下ろしてあげていた様子をよく覚えている」と語る。「鬼畜」と教えられてきた米兵に助けられた驚きが垣間見える。

 上陸してきた米兵たちと戦おうと、ガマには竹やりも準備されていたが、住民たちが竹やりを米兵に向けることはなかった。友寄さんは「お年寄りと女性と子どもしかいなかったからでは」と推測する。「若い人は兵隊に行っており(米軍に)抵抗するという話にならなかった。(抵抗を)やってたら死んでいたはずだ」。力を込めて語る友寄さんの言葉は、武器に武器で向き合わないことが住民の命を救ったことを教えてくれた。


<記者の目>何が命救ったか 暗闇の中考えた 塚崎昇平(北部支社報道部)

コージガマを取材する塚崎昇平記者=18日午前、恩納村真栄田(喜瀨守昭撮影)

 ガマの中で避難生活を想像した。暗い洞窟の中で身を寄せ合い、艦砲射撃に耐え続けたのだろう。その中で「鬼畜」と教えられてきた米軍に投降する恐怖感は想像に余りある。

 「集団自決」(強制集団死)が起きた読谷村のチビチリガマなど、沖縄戦下のガマはしばしば悲劇の舞台として記憶される。コージガマも少し状況が違っていれば、米軍に攻撃されたり、「集団自決」(強制集団死)が起きたりしたかもしれない。県民はわずかな差で命が奪われたり、助かったりした。そんな状況は二度と生み出してはいけないと強く思った。

(2016年入社、28歳)