1944年10月10日の10・10空襲の日、安里祥徳さん(90)=北中城村=は炎上する日本軍の艦船を首里大中町の高台から見ていました。「大変な状態だった」と安里さんは語ります。その後、中城村(現北中城村)喜舎場の実家に避難します。
「首里も危ないということで、生徒は自分の出身地に戻ることになりました。母も一緒に喜舎場に向かったと思います。宜野湾街道は国頭に避難する那覇の人でいっぱいでした」
1週間ほど喜舎場で過ごした後、首里に戻り、陣地構築の作業に追われます。
11月になり、安里さんら県立一中の2年生は無線訓練を受けることになります。軍が派遣した大尉が指導しました。その時、自身が一中通信隊に動員され、戦場をさまようことになるとは思ってもいませんでした。
45年3月末、米軍の艦砲射撃が始まります。混乱の中、県立一中の生徒で鉄血勤皇隊が組織されます。
《米軍が島尻の具志頭方面に艦砲射撃を開始し、その砲撃音が首里までとどろいた。それが数日続いたので、学校の指示を受けずに多くの生徒が出身地の地方に分散した。
そういう状況の中でわが一中では連絡の付く範囲内での職員と生徒が集合して、3月27日に県立一中最後の卒業式を挙行した。式終了と同時に、3年生以上の生徒は日本軍支援部隊として沖縄一中鉄血勤皇隊を組織し、入隊した。》