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経営は先の先を読む オリオンビール会長の嘉手苅義男さん〈ゆくい語り 沖縄へのメッセージ〉31


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嘉手苅 義男さん

 オリオンビール会長の嘉手苅義男さん(81)の自宅の床の間には樹齢100年というチャーギ(イヌマキ)の柱がある。新築する際に100年木を探し、1本100万円で購入した。

 2017年のオリオン創立60年の際に、チャーギの苗6千本を本島北部の山に植樹した。緑化事業ではなく、「1万本の苗木を植えれば、100年後に100億円の資産になる」という未来への投資だ。「100年後のために今、木を植える。先を語るのは誰でもできる。経営は『先の先』を読むことだ」と語る。

 沖縄産業界の四天王に数えられるオリオンビール創業者・具志堅宗精氏の秘書課長に起用され、薫陶を受けた。「君たちで会社を発展させてくれというのが宗精翁の最後のメッセージだった」と振り返る。

成功の要諦は 成功するまで続けること

 

床の間のチャーギ(イヌマキ)の柱を前に「百年後のために木を植える。経営も先の先を読むことが大事」と語る嘉手苅義男さん=6月、那覇市内の自宅

 ―沖縄戦で父親を亡くした。戦後はどのような暮らしを送ったのか。

 「家は嘉津宇岳の山の中だったが、人を使うぐらいの広さの畑や棚田があり、戦争前、父親(松吉)がいる時までは裕福だった。しかし、戦争が終わってからは大変な貧乏を味わった。私は当時7歳で、上に2人の姉、下に2人の妹がいた。夫に死なれて5人の子どもを抱え、まだ36歳だった母(芳子)の苦労は計り知れない」

 「屋部小学校から家まで1時間かかる登山コースだった。母はここでは子どもの教育ができないといって、5人の子を連れて誰も頼る人がいない那覇に出た。今の桜坂にトタン屋根の6畳一間を借りて、6人が生活した。戦争の話になるとつらいね」

 ―知り合いのいない那覇での生活は大変だったと思う。

 「母の苦労を知っているから、親孝行をすると決めていた。母は平和通りで野菜やそうめんなどを売って生計を立てた。僕が勉強したのは中学3年までで、高校はずっと母の手伝いだった。母と一緒に行商したり反物を担いだり、自転車で缶詰を運んだり。生きるため、食べるための手伝い。妹は恥ずかしいと言うけど、僕はそんなのどうでもいい。あの辺から度胸がつくんだな。今の那覇新都心は当時外国人住宅街で、日曜日にはガーデンボーイとして庭の芝生を刈るバイトをした。屋部の山の中で育って草刈り上手だったのが役に立った」

「出稼ぎ」のつもりが業務改善にのめり込む

 

オリオンビール25周年記念事業の講演会で沖縄を訪れた長嶋茂雄さん(左)と握手を交わす嘉手苅義男さん

 ―沖縄戦から12年後の1957年、製造業の復興を掲げてオリオンビールは創業する。入社はどのような経緯だったのか。

 「実は、オリオンビールに私は『出稼ぎ』として入ったんだ。那覇商業高を卒業して銀行に入り、約6年間勤めた。すぐ上の姉が病気になって、保険がきかない時代なので入院費用が払えなくて借金を抱えることになった。借金を返すため沖縄で一番賃金の高いところを探したら沖縄港湾があった。銀行の給料が30ドルだったが、港湾の荷役は60ドルもらえた。それで銀行を辞めて、港でヘルメットをかぶって何百人という作業員の荷さばきを監督した。港で1年働いたら、あと5ドルもらえるという職場があった。それがオリオンビールの販売会社だった」

 「オリオンビール販売の経理に入った。経理は銀行出身なのと、集金したお金を最後にまとめて夜間金庫に入れると夜中の1時になって残業がついて65ドル稼げる。『出稼ぎ』だから、そのうち辞めて金融界に戻るつもりでいたんだが、次第に仕事が楽しくなる。まだ完成していない会社なので、伝票も決算書も販売計画も何もかも自分で作った。この改善作業が楽しくてしょうがなくって、オリオンビールを辞めるチャンスがなくなっちゃった」

 ―戦後のたくさんの苦労が経営に携わっていく上で土台になった。

 「頭にあるのは初志貫徹だ。とにかく一生懸命やってみる。成功の要諦とは、成功するまで続けるところにある。オリオンビールの25周年を迎える当時、企画室次長だった。記念講演会の担当だったので、私はプロ野球巨人の長嶋茂雄を講師に呼びたいと提案した。みんなが『絶対不可能だ』と言ったが、私は長嶋さんに関する一切の本を仕入れて片っ端から調べた。立教大野球部の砂押(邦信)監督の家も訪ねたし、長嶋さんが客員をしていた報知新聞にも接触した。オリオンビールの役員からは、諦めて次の人選を考えるよう再三言われたが、私は『まだ本人から断られていません』と粘った」

 「そうしたら報知新聞の担当者から呼ばれ、長嶋さんの家に連れて行ってもらった。すごい大きな家で、ついに本人に会えた。僕は沖縄の野球の歴史から沖縄戦のこと、オリオンビールのことを1時間かけて話をした。長嶋さんが『やったことないが、引き受けたからには一生懸命やります』と言ってくれたのは、今でも忘れられない。仕事は命懸けでやらないと成功しない」

愛と厳しさの創業者 胸に刻む最後の言葉

 

生前の母・芳子さんと辺戸岬を訪れた際のスナップ写真

 ―沖縄の経済四天王の一人に数えられるオリオンビール創業者、具志堅宗精氏の近くにいた。

 「あの当時にビール会社をつくろうという発想も普通じゃない。そういう普通じゃない人の下で6年間秘書をした。この人ほど沖縄愛、そして、なにくそやるぞという闘志を持った人はいないと思う。戦前の警察署長だから、とにかく厳しい。たくさん叱られた。でも愛情いっぱいの叱り方だったから、父親がいない僕にはオヤジのような存在で多くのことを学んだ」

 「具志堅宗精翁が亡くなる6日前、12月23日に自宅に呼ばれた。クリスマスのイルミネーションが飾られた庭を眺め、『自分がつくった会社だけどグソー(あの世)には持っていけない。君たちが頑張ってこの会社を発展させてくれよ』というのが僕への最後のメッセージだった。一生忘れない言葉だ。ファンドが入って今は第二の創業になっているんだけど、具志堅宗精だったらどうしただろうかというのを自分でも考える。悩んでばかりでもだめなので、やはり会社の発展、企業価値を高め、あと4、5年後にはまた沖縄の人がオリオンビールの株を買い戻す。それを見届けるのが私の今の使命だと思っている」

 ―改めて、お母さまはどんな存在だったか。

 「母くらい尊敬する人はまずいない。子どもたちの命を守った。99歳まで生きて、病院に毎日通って大往生を見守った。世界で一番好きなのは誰かと言えば母だ。母も『やーや世界一の親孝行どー(お前は世界一の孝行者だよ)』と言ってくれた。母の幸せは、僕を幸せにすること。母が苦労していたら僕も幸せにならない。僕が幸せだということは母も幸せ。いつもそう思っている」

(聞き手・編集局長松元剛、経済部長与那嶺松一郎)

かでかる・よしお

 1938年、屋部村(現在の名護市)旭川生まれ。那覇商業高卒業後、第一相互銀行(現沖縄海邦銀行)などを経て、63年にオリオンビール販売(後に本社に吸収合併)入社。83年にオリオンビール創立25周年記念事業の一環としてプロ野球・長嶋茂雄氏の沖縄初の文化講演会を担当し、87年の30周年記念事業では移住国で採取した熱帯花木を県内全域に植栽する「花の国際交流事業」を手掛けた。2009~17年に社長を務め、オリオンビールの海外出荷のほかホテル、不動産事業など経営の多角化に取り組んだ。

 取材を終えて  

「第二の創業」後に注目

経済部長 与那嶺松一郎

 嘉手苅会長から75年前の沖縄戦体験を聞く機会は貴重だった。それと同時に、戦後75年の歩みにも四分の三世紀という時代の激動を改めて感じた。

 戦争で多くの人命と財産を失った県民が、貧しさの中で生計を立て、産業を興し、後進を育てた。積み重なってきた先達の営みが、現在私たちが享受する豊かさにつながっている。感謝とともに、平和な時代をつないでいく責任の重さを実感する。

 連綿と続く営みの一方で、沖縄経済を取り巻く環境は時に劇的な変化を見せる。オリオンビールは昨年、日米の投資ファンドによる株式買収があり、ガバナンス(企業統治)の主体がこれまでと大きく入れ替わった。オリオンビールの「第二の創業」がどういう歴史をつくっていくか、注目していきたい。
 (与那嶺松一郎)

(琉球新報 2020年7月6日掲載)