
那覇市若狭町に住んでいた山城正常さん(86)=南風原町=は松山町の「慰安所」を覚えています。
「海軍の水兵に『朝鮮ピーがいる所はどこか』と聞かれて案内したことがあります。朝鮮の女性は沖縄の女性と顔姿が違って見えました。子どもたちは石を投げたり、『朝鮮、朝鮮パカするな』と、からかったりしていました」
家族は本土へ疎開しませんでした。「死ぬ時は家族一緒」という父正矩さんの意思に従ったのです。長男の正和さんが乗った嘉義丸が米軍に撃沈されたことも影響しました。正常さんの3歳違いの姉は疎開を希望し、正矩さんに泣いてせがんだといいます。姉の友人ら疎開児童が乗った「対馬丸」は米潜水艦に沈められました。
1944年の10・10空襲の日、山城さんは屋敷内の壕や海岸沿いの岩礁台地「上の毛」の墓に避難しました。
《10・10空襲は右往左往したあげく、海岸近くの誰の物とも知れない墓の骨壺を外に運び出し、中に避難して難を逃れた。那覇市は爆弾、焼夷弾の波状攻撃で9割は焼き払われ焼け野原となったが、わが家をはじめ若狭町の一部は被災を免れた。 夕暮れには墓を出て、恐怖に震えながら軍命に従い、燃え盛る街を後にし、田舎に向かった。親子着の身着のまま、空腹を抱えてひたすら歩き通した。》