日本軍トラックで北部へ 山城正常さん 捕らわれた日(32)<読者と刻む沖縄戦>


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家族が一時避難した金武観音寺の鍾乳洞

 1945年2月中旬以降、本島中南部住民の「北部疎開」が進みます。山城正常さん(86)=南風原町=の家族も疎開を迫られますが、ぎりぎりまで那覇市若狭にとどまりました。与那原に住む父方のおばあさんが「やんばるには行きたくない」と疎開を断ったためでした。

 父の正矩さんは「一緒に行こう」と説得を重ねますが、おばあさんの意思は固く、おにぎりを置いて別れを告げたといいます。戦後、おばあさんは遺体となって見つかりました。「私たちに迷惑をかけたくないという思いがあったのだと思います」と正常さんは語ります。

 家族が日本軍のトラックで那覇を離れたのは3月中旬のことでした。近所に住む「散髪屋の照屋さん」一家3人と「玄米屋のおばあさん」も一緒でした。以後、大宜味村で米軍に捕らわれるまで10人余が行動を共にします。行く先は金武村(現金武町)の開墾地でした。

 《1棟の空き屋があてがわれ、自給自足の生活を強いられた。周りに畑がなければ作物もない。持参の食糧も尽きかけ、裏庭に芋を植えたが、収穫を待たずに艦砲射撃が始まった。米軍の上陸作戦の開始だ。砲撃音と閃光(せんこう)が夜空を焦がす。読谷方面らしい。恐れていたことが現実になり、恐怖が募った。》

 家族は開墾地にある壕に避難し、その後、金武観音寺にある鍾乳洞へと移動します。