総理府史「沖縄信託統治」誤り指摘後も数年放置 重版予定なく


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総理府史の誤りのある「沖縄関係行政の変遷」の項

 沖縄が米国の信託統治下に置かれていたという総理府史の誤りを最初に指摘したのは、編さんには関わらず、当時既に退職していた元沖縄開発庁企画課長の櫻井溥氏だった。櫻井氏は「沖縄が信託統治でなかったが故に、本土復帰が日米2国間だけの協議で実現した。総理府史の誤りがただされないことは、沖縄の戦後史がゆがめられ、後世に禍根を残す」と指摘。数年前から同史の編さんに携わった関係者に修正を促してきた。

 総理府史の編さん当時、顧問だった元総理府次長の平野治生氏は櫻井氏から相談を受けた。平野氏は本紙の取材に「総理府史の文章はしかるべき立場の人が書いて内容は信頼していた。全ての文章を読んで校正したが、誤りを読み過ごしてしまった責任はある」と話した。

 平野氏が櫻井氏から相談を初めて受けたのは4、5年前だといい、内閣府に伝えたが、既に総理府史は刊行して各所に配布済みだった。重版予定がなく、修正が難しいという返答でやむなくそのままにしたという。

 平野氏は「書いた人の説明では、講和条約の条文にそう書いてあるからあながち間違いではない、ということだった。確かにその説明にもある程度納得した」と話す。

 その上で「総理府史の該当部分の記述の後に、結局そう(国連の信託統治に)ならなかった、ということを2、3行付け足せばよかったが、それが不足していた」と述べた。


<用語>総理府

 1949年に内閣総理大臣直属の中枢行政機関として設置された。1952年、連合国軍総司令部(GHQ)の要請で日本政府は総理府に「南方連絡事務局」(付属機関)を設置し、那覇に「那覇日本政府南方連絡事務所」を置いた。これらは米国統治下の沖縄で米側機関との連絡機関として機能した。72年、沖縄の日本返還に伴い、総理府の外局として沖縄開発庁が設置され、沖縄の遅れた社会資本整備など振興開発施策に当たった。沖縄開発庁は2001年1月に内閣府に統合された。