防衛隊の姿に疑問感じる 山城正常さん 捕らわれた日(34)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
現在の大宜味村喜如嘉の集落

 金武を離れた山城正常さん(86)=南風原町=の家族は金武村(現宜野座村)漢那、名護、羽地村(現名護市)伊差川、大宜味村津波を経て、塩屋湾に沿って大保を通り、喜如嘉にたどり着きます。

 途中、母方のおばあさん、おばさん、10歳くらいの男の子と偶然出会いました。おばあさんは足が不自由で男の子も障がい児でした。北部を目指して一緒に歩きましたが、おばあさんらは歩みが遅く、途中で別れてしまいました。戦後、おばあさんと男の子は亡くなったと聞きます。

 津波を通過する時、北上する米軍のトラックに追い抜かれました。「鍋や釜を頭に乗せ、一番下の2歳くらいの子をおんぶして、休み休み移動しました」と山城さんは語ります。

 喜如嘉の集落で竹やりを手にした防衛隊を見かけました。山城さんは「子ども心にこれで戦争ができるのかと疑問に感じました」と振り返ります。

 《集落は住民の姿はなく無人で、防衛隊らしきグループを見掛けただけ。二十数人のメンバーの中で銃を持つ者は4、5人で、他は竹やりを持っていた。まさしく棒兵隊と揶揄(やゆ)される装備の貧弱な日本軍の姿だった。

 私たちも疲労困憊(こんぱい)し、北上を諦め、喜如嘉の山中に避難し、炭焼き窯を住まいにした。食糧は夜間集落に下り、他人の畑から作物を盗み取った。やむを得ぬ窮余の策だったと思う。》