学童疎開に母が反対 岳原初子さん 収容所で(1)<読者と刻む沖縄戦>


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岳原初子さん

 沖縄市の岳原初子さん(86)から体験記が届きました。岳原さんはうるま市の生まれです。疎開先の東村で米兵に捕らわれ、田井等や石川の収容地区で暮らしました。

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 岳原さんは1934年7月、具志川村(現うるま市)江洲で生まれました。8人きょうだいの四女です。父の徳田有堅さんは日中戦争に兵士として動員され、その後も騎兵として日本各地で勤務しました。帰郷後は江洲区長を務めました。

 1944年7月7日、政府は南西諸島の老幼婦女子の疎開を決めます。岳原さんの家族も母キヨさんと姉、弟2人の疎開の準備を進めました。ところが出発2日前、キヨさんは「死ぬんだったら一緒」と疎開に反対し、有堅さんと対立します。

 9歳の初子さんは疎開を巡って言い争う両親の姿を見ていました。「こういう時は母が強かった。父はあまりものを言わない人でした」と語ります。結局、キヨさんが押し切り、疎開は取りやめとなります。

 有堅さんは時々那覇でまとめ買いした新聞を家で読んでいました。初子さんはその新聞で10・10空襲を知りました。「那覇が大変になっているよ」と有堅さんが読み聞かせたそうです。時々、日本兵が家に訪ね、戦況について意見を交わしていました。

 しばらくして家族は東村へ疎開することになりました。迫り来る戦争に家族が巻き込まれていきます。

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 米軍に捕らわれ、各地の収容所に送られた住民の体験記を紹介します。