米軍北上、家族と山奥に 岳原初子さん 収容所で(3)<読者と刻む沖縄戦>


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東村有銘の海岸

 1945年4月1日、中部西海岸に上陸した米軍は本島を分断し、南北へ進攻します。岳原初子さん(86)=沖縄市=が家族と共に避難していた東村でも海岸沿いを行軍する米軍が目撃されます。住民や中部から来た避難民は山中へ避難します。

 岳原さんの家族は、東村有銘の山奥で炭焼きを営んでいるお年寄りの案内で避難場所を探しました。「ほかの住民や避難民が来ないような場所でした」

 父の有堅さんは初子さんに海岸で塩水をくむ役目を言いつけます。塩水は食事を作るのに使うのです。

 《夜空も見えない、太陽も顔をのぞかせない、私たち家族のほかには誰もいない山の奥。

 私はその時10歳で、「米軍機も子どもは狙わないだろう」という理由で、往復5時間かかる有銘の海へ水くみの仕事を言い渡された。大雨の日には流されて死ぬかも知れないと思い、恐ろしくて泣いて行かなかった。

 食べ物はソテツを海水で煮たものを毎日食べた。嫌だといったら死ぬしかない。》

 山中で敗残兵に遭遇することもありました。

 《ある時、5、6人の負傷兵がやって来た。ソテツの食事を分けてあげたら、みんな無我夢中でむさぼり食べた。ベルトには手りゅう弾を下げていた。負傷兵の傷口からうじ虫がぽとぽと落ちた。びっくりして私はただじっと見ていた。》