父の諭し、戦後生きる支えに 岳原初子さん 収容所で(6)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の赤道小学校周辺

 石川から具志川村(現うるま市)赤道に移った後も岳原初子さん(86)=沖縄市=はマラリアに苦しみました。
 「もう自分はそんなに長く生きられない。マラリアで亡くなる人をたくさん見てきた。自分の番はいつ来るのだろうかと思っていました」と振り返ります。

 病状が落ち着いたのは具志川村江洲に戻って以降です。父の有堅さんは初子さんを一学年下げて学校に通わせます。

 《マラリアのせいで勉強についていけないと思ったのか? 友だちともはぐれて嫌になり、反発し、学校に行かなかった。》

 そのような日が1カ月ほど続いた後、父と娘は話し合います。

 「父は『命のある間、頭を磨けば、どんな時代になっても生きていける。頑張って勉強しなさい』と私を諭してくれました」

 父の諭しは戦後を生きる支えとなりました。「戦争で多くのものを失ったが、今日まで生かされてきた。神様に感謝しなければ」という思いも抱きました。

 初子さんは悩みながら、紙面に載る「戦後75年」の文字に突き動かされて体験記を送ってくれました。「人生のゴールが見えてきた今だからこそ、体験者しか知らない戦争のことを伝えたかった」と語ります。

 初子さんの体験記は平和を支える礎(いしずえ)の一つとなりました。
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 岳原初子さんの体験記は今回で終わります。次回は山入端立雄さんの体験記です。