読谷村の山入端立雄さん(85)から体験記が届きました。山入端さんは米軍上陸の前夜、北谷村(現嘉手納町)兼久から羽地村(現名護市)に避難します。その後、現在の宜野座村に置かれた収容地区で暮らします。
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山入端さんは北谷村兼久で生まれました。戸籍では1935年4月の生まれですが、実際は前年秋に生まれたといいます。8人きょうだいの末っ子で、姉6人、兄1人がいました。父の三良さんは北谷村野国、母マイヌさんは同じ北谷村砂辺の出身です。
生家の敷地は現在、嘉手納基地の中です。「滑走路の南端あたりです」と立雄さんは語ります。
立雄さんは屋良国民学校に通います。戦争の足音を感じます。村ぐるみで戦勝を祝うこともありました。
《3年生の頃であったか、日本は戦争を拡大し、南方に侵攻、シンガポールが陥落した祝いとして、国民学校の生徒を先頭に、村民がちょうちん行列で県道を行進したことがあった。》
村内にも日本軍の部隊が入ってきました。山入端家のウフヤー(本家)の離れは「慰安所」として使われたようだと立雄さんは考えています。
《ウフヤーのアサギ(離れ)には陸軍の中隊長が居座るようになり、女性が2人来た時は多数の兵隊は一列に並んで出入りしていた。振り返って考えるに、慰安所としての存在ではなかったかと思う。》
日本軍の中飛行場建設に住民が動員されました。立雄さんの10歳上の兄、立盛さんも飛行場建設に駆り出されました。