万年筆をなくしたあの壕であったこと 泣き叫ぶ兵士、腕をのこぎりで… 壮絶な体験を手記に


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県立第二高等女学校に入学した頃とみられる平良栄子さん(前列左から3人目)ら(平良さん提供)

 75年ぶりに父から贈られた万年筆と再会した平良栄子さん(89)=旧姓・賀数=は、沖縄戦に学徒動員され、家族や友人らを失い、自らもけがを負いながら生き延びた。栄子さんはこれまで家族以外には戦争体験を語らなかった。24年前にまとめた手記には、被弾してけがをしたことや、目の前で負傷兵が自決したことなど、壮絶な体験が書きつづられていた。

 栄子さんは1943年、県立第二高等女学校に入学した。2年に上がる頃には授業日と軍隊の作業日が一日おきになった。44年10月10日、授業日でいつものように汽車で学校に向かったが、津嘉山駅に向かう途中で那覇方面から黒煙が上がった。「早く汽車から降りて避難して」。駅に着くと、消防隊員が叫んだ。栄子さんも汽車から飛び降り、友人5人とキビ畑や芋畑をかき分けて高嶺村(現・糸満市)与座の自宅まで逃げた。

 米軍上陸が迫る45年3月、栄子さんは与座にあった第24師団司令部に動員された。そこには雨宮巽中将らの姿もあった。集落の西にあった、川の近くの治療場に炊事場から飯上げしたり、負傷兵の世話をしたりすることもあった。偵察機が静かになると、川に包帯を洗いに行った。ガーゼにウジが付いていることもあり、最初は飛び上がるほど驚いたが、次第に何とも思わなくなった。

 5月に入ると、運ばれてくるけが人も多くなった。同月初旬、傷を負った上等兵の右腕を切断することになった。軍医らが麻酔もせず、のこぎりやメスで体から切り離した。「ギャー」。悲鳴を上げもがき苦しむ上等兵の手足を栄子さんらは押さえ続けた。

 第24師団司令部壕が置かれた与座周辺も戦場と化した。6月12日、栄子さんは壕の石積みの間から右肩に銃弾を浴びた。麻酔なしで手術され「もう止めて。痛いよ。痛いよー」と泣き叫ぶしかなった。その日から米軍の馬乗り攻撃も始まった。ある負傷兵は大腿(だいたい)部の傷にうじがわき「もう死んでもいいから水を飲ませてくれ」と壕内に叫び声が響いたが、何もしてやれなかった。

 同月15日、動員された女学生は解散となった。壕内の重傷を負った兵士には薬物や手りゅう弾が与えられた。栄子さんは機銃掃射で頭に傷を負いながら、先輩らと共に高嶺村大里のブジュンの壕に逃げ込んだ。その壕内では途中で会った義兄に看病してもらったが、近くにいた負傷兵が突然持っていた手りゅう弾の信管を抜いた。「ボーン」。爆発音が響き耳は「キーン」と一時何も聞こえなくなった。「この壕も危険だ」。先輩らと共に外に出るしかなかった。

 出口にさしかかると、見覚えのある顔があった。二高女の友人「新崎さん」が冷たくなって横たわっていたのだ。先を急ぐ人たちが手足を踏みつけて出て行った。栄子さんは「本当にごめんなさいね」と謝り、涙を流して体を側に寄せるしかなかった。

 壕を出た栄子さんらは同村豊原を目指した。途中、米軍に見つかってガムを与えられ、けがをした所に包帯を巻かれた。その上には青のマジックで「6月25日」と書かれた。栄子さんの沖縄戦が終わった瞬間だった。 (仲村良太)